吉永小百合「いつでも夢を」大竹しのぶ「あゝ野麦峠」は感染症映画だった! コロナの今だから映画で励まされたい(2)

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『あゝ野麦峠』に凝縮されている感染症対策と社会保障

「あゝ野麦峠」(AmazonDVDより)
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   さて現在、感染症といえば新型コロナウイルスやエボラ出血熱などが脅威とされているが、1950年代に特効薬が普及するまでの間、日本人の死因の上位にランクインされて感染症がある。「国民病」と呼ばれた結核だ(編集部注・結核菌によって発症)。結核こそが昭和30年代まで一番の脅威になっており、多くの映画に取り上げられた。

   三原岳さんによると、女工哀史映画の傑作「あゝ野麦峠」(1979)は、「結核対策映画」でもあるという。三原さんは、こう指摘する。

「新型コロナ対策で最前線を担った保健所は、もともと結核対策を想定して 1937 年(昭和12年)に創設されました。さらに 1927年(昭和2年)施行の健康保険法も『女工』と呼ばれた女性労働者の結核対策という側面を持っており、女工の健康問題は『あゝ野麦峠』に詳しく描写されています」

   今日、われわれが恩恵をこうむっている保健所や健康保険制度は、そもそも女工を結核から守るために創設されたというのだ。

   「あゝ野麦峠」の舞台は20世紀初頭。「野麦峠」は岐阜県と長野県の境に位置する地名で、ヒロインの政井みね(大竹しのぶ)は13歳の少女だ。みねの実家は父母と2 人の兄に加え、まだ小さい4人の弟妹を抱えており、みねは苦しい家計を助けるため、岐阜県飛騨地方の寒村から長野県岡谷市の製糸工場に行く。

   みねの仕事は、繭を煮て生糸を取る「糸取り」という作業。労働は「過酷」という言葉では形容できないレベルだった。朝4時半に起床、洗顔、トイレを慌ただしく済ませた後に朝の労働。7時に朝食を10分で摂り、また労働。昼食も立ち食いで10分、再び夕方まで労働。12時間以上働いた。職場環境は劣悪で、気温40度に達する工場は締め切られており、日光も風も入らない蒸し風呂状態。結核菌が繁殖するには絶好の条件だった。

   結局、みねは結核に感染する。しかし十分に医療を受けられず、隔離小屋で寝かされた後、工場を訪れた兄の辰次郎(地井武男)に背負われ、郷里の飛騨に戻るところで映画はクライマックスを迎える。

   映画のこうしたシーンは相当、当時の様子を反映しており、工場の実態を取材した原作の「女工哀史」(細井和喜蔵、1925年・大正14年刊)や、農商務省(現経済産業省)が取りまとめた報告書「職工事情」(1903年・明治36年刊)でも同様の実態が紹介されているという。そこで、劣悪な環境を改善するため、政府は1916年(大正5年)、女性労働者の就業時間を制限する工場法を施行した。これは社会保障立法の始まりの一つとされ、1927年(昭和2年)施行の健康保険法など労働安全法制の源泉となった。

   つまり、『あゝ野麦峠』は日本の感染症(結核)対策と社会保障制度の歴史が凝縮された映画というわけだ。

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