俳優の渡哲也さんが亡くなられました。俳優としてはもとより、故石原裕次郎さんとの二人三脚でのプロダクション運営でも印象深い方でした。
渡さんは、1964年日活に入社し翌年主演デビュー。一躍人気を博しました。撮影所で同じ日活所属で憧れの大先輩である石原裕次郎に会い、その人柄に惹かれ日活の路線変更とともに同社を退社して石原プロモーションに入社しました。渡さんは引く手あまたの人気俳優であったわけですが、当時多額の借金を抱えて倒産寸前であった石原プロを選んだのは、苦労している裕次郎社長をそばで手伝いたいという気持ちあればのことであったいいます。
貫いた裕次郎さんとの「二人三脚」経営
渡哲也さんは石原プロの再建に向けて、同社のテレビドラマへの本格進出を積極的にリードしました。「大都会」シリーズや「西部警察」といったアクション系のテレビドラマを立て続けに大ヒットさせるなど、裕次郎社長との二人三脚で見事に立て直しを成功させ、その後は副社長として「ツートップ経営」で同社をけん引してきました。
1987年の裕次郎社長の死後は、社長の座を引き継いで2011年まで、撮影事故や本人の病気休養などを乗り越えつつ、会社経営を担ってきました。11年の社長退任時には、「裕次郎さんの社長在任期間を越えるわけにはいかない」と、その座を退いた理由を説明。経営者として最後まで裕次郎さんへの敬意に支えられた、二人三脚を貫いた姿勢が印象的でもありました。
社長と副社長、会長と社長という2人の経営者が役割分担しながら経営に携わるツートップ経営というのは、じつは簡単なようで難しいものです。
実業界ですぐに思い浮かぶツートップ経営の典型的な成功例は、創業期のソニーでしょう。戦時中に知り合い、同じ夢をもって日本の戦後復興に立ち向かっていった井深大、盛田昭夫という二人のカリスマ経営者。東京通信工業からソニーに名前を変え、いよいよ大きく羽ばたかんとしていた折、13歳年上だった井深氏が社長を務め、盛田氏は副社長としてツートップ体制をスタートさせました。
二人は共に優秀な技術者でしたが、企業を成長させていくためには、優れた技術力だけではそれを十分に果たすことはできません。早くにその点に気が付いた二人の創業者は、それぞれの役割を明確に分けることで、さらなる成長をめざしました。
年齢で13歳年上であった井深氏に敬意を払ってやまなかった盛田氏は、井深氏に技術面に専念してもらい、自らは組織リーダーとして企業マネジメントで会社を支えることにしました。この「ツートップ」体制が功を奏し、ソニーはその後の大きな発展の礎を築くことができたといわれています。
「ツートップ」でも失敗例はある、その共通項は?
わが国には中小企業含めて技術力に優れている企業経営者はたくさんいますが、マネジメントにも長けた技術系経営者は少なく、ワントップ体制で成功できる企業はごくごく限られてしまうのです。
そんな町工場の限界をツートップ体制が打破してくれるということを、ソニーは体現したわけなのです。成長したソニーは町工場経営者たちの希望の星となったわけなのですが、その成功の陰に井深氏と盛田氏による絶妙なツートップ体制構築があったことを知る町工場経営者は意外に少なく、素晴らしい技術力を持ち、ソニーに憧れながらも、「第二のソニー」になる夢を果たせずに消えていった企業経営者はたくさん存在します。
では、ツートップ体制を敷きさえすれば、成長に向かう企業マネジメントは常に成功するのかと言えば決してそうではありません。むしろ、失敗例のほうが多いぐらいでしょう。私の周りでも、ツートップの経営体制を敷きながら失敗した例はたくさんあります。それら失敗例を思い起こしてみると、親子経営者によるツートップ、兄弟経営者によるツートップ、友人起業によるツートップなど、私の目の前で起きた具体的な失敗例がリアルに浮かんできます。
失敗例の共通項を考えてみると、ほとんどの場合でツートップ二人のあいだでの明確な序列と、下位の者から上位の者に対する敬意の念の欠如があるように思えます。たとえば親子の場合、父を上位とした会長と社長あるいは社長と副社長という明確な序列はあるものの、子から親への疑う余地なき敬意の念があるかというと、そこに欠けているケースで失敗が多く起きているようなのです。
根底で父に対する敬意の念を持ちながらも、経営者としての父に対する対抗心、あるいは過去の実績に対するライバル心が邪魔した結果、あらぬ不協和音を生じさせるようなことになることも多いのです。
渡さんには裕次郎さんへの絶対的な敬服の念があった
兄弟ツートップの場合は一層、敬意の念が失われがちです。兄がトップなら、弟は弟という理由だけでナンバー2に甘んじることの理不尽さから、必要以上のライバル心を煽ることになりがちです。逆に弟がトップなら、兄は自分が兄なのになぜ弟の下につかなくてはいけないのか、となるわけです。
友人ツートップの場合には、さらに微妙です。形式上どちらかがトップを務めるわけなのですが、たとえば会社の保証人になるなどの現実に引っ張られてトップの責任感が増し、それが言動の端々に出ることでナンバー2の不満を呼び起こし、「袂を分かつ」というようなケースも複数見てきました。
渡さんの場合には、裕次郎さんへの絶対的な敬服の念があって、そして彼をナンバー2として引き立ててくれたという恩義がそこに重なり、もっともいい形でツートップ経営が形づくられ、二人三脚でヒット作を連発して瀕死の石原プロを見事に蘇らせたと言えるのではないでしょうか。
2020年7月、石原プロは来年1月での会社の解散を発表。オヤッと思わせる向きもあったのですが、渡さんの訃報でその謎が解けた気がします。石原プロは「裕次郎=渡の心のツートップ」があっての企業。渡さんは裕次郎さん亡き後も社長の座を継いで会社を支え、またその退任後も陰になり日向になり会社を支えてきたことがうかがわれます。
渡さんの訃報に、成功に向かう会社経営のひとつのあり方を思い起こさせていただきました。心よりご冥福をお祈り申し上げます。(大関暁夫)