「3か月間休みなしの徒弟奉公」「忘年会にお座敷ストリップ」今では大問題になる「昭和のトンデモ働き方」

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「女性社員は結婚したら辞めるのが当然だった」

セクハラという概念がなかった(写真はイメージ)
セクハラという概念がなかった(写真はイメージ)

   また、自由回答の中には、こんなケースが書かれていた。

「休みを返上して働くのが当たり前だった」
「ハラスメントが日常茶飯事だった」(1989年=平成元年にセクハラ(性的嫌がらせ)を理由とした国内初の民事裁判が起こされた。また、この年『セクシュアル・ハラスメント』という言葉が新語・流行語大賞を受賞、セクハラという概念を広めるきっかけになった)
「女性社員が結婚したら辞めるのが当然だった」(『寿退社』と呼んでいた)
「ボーナスは現金支給で、7か月分出ていた」
「土日に何かしらの会社イベントが多くあり、すべて強制参加だった」(会社は家族という考え方から、社内運動会、野球大会、社内旅行、忘年会、新年会、納涼懇親会などが頻繁に開かれた)

   いずれも今日の若い人には考えにくい「昭和の働く光景」だろう。

   さて今年、古希(70歳)を迎えたJ-CASTニュース会社ウォッチ編集部記者の新入社員時代の「今なら大問題!?」かもしれない昭和の働く光景を紹介したい。1973年(昭和48年)にある新聞社に入社した。新聞記者の第一歩は地方支局からだ。支局に独身寮があり(六畳一間)、最初の1年間住み込むのだ。そこでの出来事はこんなだ。

(1)労働基準法無視の徒弟奉公=支局に赴任すると、最初2か月間以上休みがなかった。朝7時から夜11時まで警察署、県警本部、消防署、検察庁などを御用聞きのように「何かありませんでしたか?」とグルグル回る。夜も当直体制に入った警察署の中で、警察官と同じ出前をとり、雑談をして名前を憶えてもらうように張り付く。また警察幹部、一線の刑事の家を夜討ち朝駆けして回るのだ。
へとへとになって、公園のブランコで考え事をしながら眠りこけてしまい、地面に落下したことがあった。3か月目ごろ、支局長から「お前は臭い。それでは取材先に嫌われる。特別に休みをやるから風呂に入って、部屋を掃除して、洗濯をしろ」とやっと休みをもらえた。あとで、「半年間は休みなしのつもりだった」と聞いた。
(2)パワハラ・セクハラ概念ゼロ=支局の3階の独身寮に住んでいると、真夜中によく部屋の前の廊下にあるベルがけたたましく鳴った。事件発生時のための緊急通報だ。しかし、支局長や先輩がちゃんと起きてくるか試すために鳴らすケースが多かった。駆けつけるのが遅いと、大いに怒られた。数年先輩のケースでは、支局の記者の誰かが他社に抜かれると、連帯責任ということで支局員全員が支局長から往復ビンタをくらった話を聞いた。旧軍人あがりの支局長が珍しくなかった時代だ。

   数年後、東京本社に異動になると、隣の職場の忘年会では余興に「お座敷ストリップ」を呼んだなんてことも。宴席には女性記者やスタッフもいたから、今ならセクハラで即刻アウト!だろう。

(福田和郎)

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