アウトドアスポーツ・メーカー、シマノの島野喜三会長の訃報が届きました。シマノは、一般的には決して知名度が高い企業とは言えないかもしれません。その知名度があまり高くない理由は、全売り上げの約9割を海外で計上しているからなのかもしれません。同社は自転車販売関連を中心として、年間売上高3600億円超を誇る知る人ぞ知る業界の巨人「世界のシマノ」であり、業界唯一の東証一部上場企業でもあります。
その会長の訃報が経済紙で大きく報じられた理由は、単に企業規模だけではありません。シマノの海外展開の礎を作ったのが故喜三会長であり、会長は一介の『自転車屋』を「世界シマノ」へと導いた日本屈指の名経営者なのです。喜三会長の死を悼みつつ、改めてその功績から学ぶべきものを探ってみます。
国内がダメならば海外がある
今でこそ日本でも競技やアウトドアツールの一つとして定着した自転車。古くは主婦のお買い物用や学生の通学手段としてのイメージが強かったのですが、シマノは古くからスポーツアイテムとして親しまれてきた世界の自転車のマーケットにいち早く着目し、不断の努力でその市場を長年リードしてきました。
喜三氏はシマノの創業者、島野庄三郎の三男で、1921年の創業来が父と三兄弟が力を合わせて自転車製造業に携わってきました。喜三氏は、大学では経済学を学び、卒業後は自動車販売会社で営業修行の後、シマノに入社します。ちょうど父を継いだ長兄が社長時代の初期で、世間は路線バスの整備と自動二輪車の低価格化などで国内の自転車市場は閉塞状態にあり、同社は経営危機に瀕していました。
「日本がダメなら海外がある」――。マーケットを求めてアメリカに飛び出したのが、三男の喜三氏でした。喜三氏は米国に立ち上げた販売会社の社長に就任するや、「世界への販路拡大にはアメリカの業界と専門店の情報が不可欠」と、自らの足で全米約6000店あまりの自転車専門店をまわり、特に情報収集に有益なアフターケアやクレーム処理に力を入れます。
アフターケアや、ましてやクレーム処理などまだまだ日本では厄介者扱いされていた時代に、細かい販売店フォローを通じて海外向け販売の基礎を作り上げたのです。
自転車で野山を走る姿にブーム到来を予感
1970年代にシマノは、国内では新規事業として釣り具製造分野への進出を果たしますが、アメリカで精力的に活動中だった喜三氏は、カリフォルニアで自転車に乗って野山を駆け回る若者たちと出会いました。
彼は自転車で野山を走る姿にブーム到来を予感し、「これは自転車の新しい乗り方になる」と閃いたといいます。そこで若者たちとの密な関係づくりを通じて、「自転車を野山で乗り回しても壊れない、丈夫なフレームや太いタイヤの自転車」という具体的なニーズを引き出し、本社に頑丈な自転車の開発を掛け合います。
しかし、釣り具事業の拡大戦略の渦中にあった長兄、次兄からは、けんもほろろに却下されます。
頑丈な自転車のニーズなど、当時の日本の常識からは考えられないものだったので、技術者であった兄たちの対応も無理からぬところではあったでしょう。ただ、創業者である父の教え、「和して厳しく」という「兄弟、家族、社員、取引先......。さまざまな人間関係は仲良くすることは大切だが、なれ合いになってはダメだ」という考えが、兄弟間の熱い議論を呼び起こし、真摯にぶつかりあったことで最終的に兄たちも納得して開発にこぎつけたのです。
こうしてスタートした新製品プロジェクトでしたが、今度は開発が自転車業界の常識に適わぬことばかりで挫折の連続に見舞われます。開発着手から2年を要しながらも、遂に完璧なまでの製品化にこぎつけられたのは、「『和して厳しく』という創業の精神が、社内にも浸透していたおかげで、社員一同に決して諦めや妥協がなかったからだ」(喜三氏)といいます。
喜三氏は生前、この開発がシマノを大きく成長させたことに触れ「シマノの強みは、相手が上司でも社長でも臆さずモノを言い、決して妥協しない風土にある」と回述しています。
チャレンジ精神を可能にした忌憚ないコミュニケーション
満を持して発売したマウンテンバイクは、1980年代にアメリカから火が付いた一大ブームに乗って世界を席巻することになります。一流競技選手たちが、こぞってシマノ製のレース用機材を使いレースで優勝するなどの成果をあげてくれたことで、同社のブランドイメージは一気に高まったのです。
こうしてシマノブランドの浸透とともに、自転車ばかりではなく釣り具用品も共に世界へと市場を拡大し、喜三氏が社長に就任した頃には、彼が新たなマーケットを求めて日本を飛び出した時に比べ、売り上げは40倍以上にもなっていたのです。
以上が、故島野喜三会長の主な足跡です。
氏の功績を根底で支えたものは、知らぬ他国をも恐れず、前例のない新製品づくりにも怯まず、まずはやってみようというチャレンジ精神。それを可能にしたのは、故障やクレームにこそ、商売ネタがあるというビジネス観と、そこに自ら飛び込んで生の声を聞き次なる商売に活かす徹底した現場主義。そして常に創業の精神を大切にし、「和して、厳しく」を浸透させどんな時でも忌憚ないコミュニケーションと不屈の精神を失わない姿勢を貫いたこと。それらが、一介の自転車屋稼業という主婦や学生の生活密着型の至って地味なビジネスを、「世界のシマノ」にまで押し上げた経営の秘訣であったのだと思います。
多くの企業がコロナ危機に苦しむ今こそ、ヒントになる知恵があふれているのではないでしょうか。
故島野喜三会長のご冥福を、心よりお祈り申しあげます。(大関暁夫)