自転車で野山を走る姿にブーム到来を予感
1970年代にシマノは、国内では新規事業として釣り具製造分野への進出を果たしますが、アメリカで精力的に活動中だった喜三氏は、カリフォルニアで自転車に乗って野山を駆け回る若者たちと出会いました。
彼は自転車で野山を走る姿にブーム到来を予感し、「これは自転車の新しい乗り方になる」と閃いたといいます。そこで若者たちとの密な関係づくりを通じて、「自転車を野山で乗り回しても壊れない、丈夫なフレームや太いタイヤの自転車」という具体的なニーズを引き出し、本社に頑丈な自転車の開発を掛け合います。
しかし、釣り具事業の拡大戦略の渦中にあった長兄、次兄からは、けんもほろろに却下されます。
頑丈な自転車のニーズなど、当時の日本の常識からは考えられないものだったので、技術者であった兄たちの対応も無理からぬところではあったでしょう。ただ、創業者である父の教え、「和して厳しく」という「兄弟、家族、社員、取引先......。さまざまな人間関係は仲良くすることは大切だが、なれ合いになってはダメだ」という考えが、兄弟間の熱い議論を呼び起こし、真摯にぶつかりあったことで最終的に兄たちも納得して開発にこぎつけたのです。
こうしてスタートした新製品プロジェクトでしたが、今度は開発が自転車業界の常識に適わぬことばかりで挫折の連続に見舞われます。開発着手から2年を要しながらも、遂に完璧なまでの製品化にこぎつけられたのは、「『和して厳しく』という創業の精神が、社内にも浸透していたおかげで、社員一同に決して諦めや妥協がなかったからだ」(喜三氏)といいます。
喜三氏は生前、この開発がシマノを大きく成長させたことに触れ「シマノの強みは、相手が上司でも社長でも臆さずモノを言い、決して妥協しない風土にある」と回述しています。