就活だ。授業だ。サークルだ。と慌ただしかったわたしの日常に、ひょっこりと現れた突然の「空白」の期間。新型コロナウイルスの感染拡大を防ぐため、外出自粛が要請されてから、しばらく経つ。大学の授業はオンラインに切り替えられ、友達とのおしゃべりもパソコンの画面を通して。そして就活はというと......。
わたし自身の体感ではあるが、現在の就活はオンラインへの切り替えというよりも、むしろ選考の延期や中止の色が濃くなっているように感じる。
家の外に出ることもできず、何となく気持ちの晴れない突然の「空白」期間。就活のスケジュールや先行きもなかなか見えず、もやもやと不安を感じている人もたくさんいるだろう。3か月前には誰も予測していなかっただろう、この状況。そんな未曾有の「空白期間」がもたらす影響は果たして、ネガティブなものだけなのだろうか――。
答えは、否であると信じたい。
「空白」は悪か!?
就活では、「空白」は敬遠される言葉のひとつであると思う。たとえば、エントリーシート(ES)。「空白が目立たないようにびっしり埋めなさい」とか、「空白が目立つと熱意がない人だと思われる」だとか。「空白」という言葉からは、あまりいいイメージは思い浮かばない。
極めつけは、「履歴書に『空白の期間』ができないようにしなさい」。ここで指す『空白の期間』とは、学校にも属さず、かといって就職しているわけでもなく、平たく言うと「何もせずにブラブラしている」期間のことを指すのだろう。
高校を卒業して大学に進み、そのまま期間を空けずに就職すること。現代の日本では、これが「あたりまえ」で、「空白」が入り込む余地はどこにもない。
けれど、視点を「そと」に移してみると、様子は少しばかり違うみたいである。「そと」と言っても、一概に言うことは到底できないけれど、わたしが見てきた「そと」の話をしようと思う。
わたしは海外旅行が大好きで、旅行好きが高じて(という理由だけではないのだが)非英語圏の国に約1年間留学していた経験がある。旅行や留学を通して、日本人・外国人を問わず、たくさんのユニークな人たちに出会った。
出会った人たちの多くは「空白」を謳歌していた。大学を卒業して、ぶらぶらと旅行に出た青年に、異国の地に飛び込んでワーキングホリデーやインターンシップをしている人たち。「こないだ大学を卒業したの」と言ったわたしの友達は、「これから就職先をじっくり探す予定なんだ」と笑った。誰も彼もが「空白の期間」を持っていた。
文化の違いというのはもちろんあると思うけれど、高校を卒業して大学に進み、そのままストレートに就職するという「あたりまえ」を「あたりまえ」にしている人が少ない、というか、いないことに衝撃を受けた。
「空白」をもっている人は、きっと魅力的な人
「だから海外はいい」とか、「だから日本はダメだ」なんて言うつもりは毛頭ない。ただ一つだけ言いたいのは、「空白」の期間がもっと評価されるような社会になったらいいのになあ、ということである。
日本の就活のシステムは新卒採用が主であり、既卒で「空白の期間」を持っている人は応募すらできない、なんてこともある。
これは「空白」がムダ、「空白」は生産性がない、「空白」は効率的でない......。つまり、「評価に値しない」「ふつうじゃない」というレッテル貼りではないのか!
その「空白」に、いったい何が詰まっているのか、聞こうともしない。その人がメチャメチャおもしろくて、独創的な何かを持った、いい人材かもしれない。そう思うと、こういった採用の仕方をしている企業は、あ~あ、もったいない! なんて......。
端から見れば、 回り道のように思えるかもしれないけれど、「空白」の期間に学べることって、じつはたくさんあるのではないかなと思う。今、わたしたちの目の前に現れている「空白」の期間も視点を変えれば、「自分次第で何かを詰め込むことができる。自分をさらに魅力的にするための準備期間」とも捉えられるのではないか。
誰も予測していなかった今回の「空白」の期間。一人ひとりが、それぞれのやり方でこの「空白」を埋めていくことを通して、いろんなカタチの「空白」がその人にとって充実した期間になり、それを寛容に受け入れられるような社会になったらいいな、と外出自粛の日々に、友達の顔を思い浮かべながら、考えてみた。(叶多凛)