高度経済成長期はGDPが「幸せ」と直結していた
こう見てくると、経済成長率が低下していくのは我々が豊かになった証であり、必然といえることがわかる。
それは誰に強制されたわけではなく、我々自身が「子供は少ないほうがよい」「モノよりもサービスが重要」というふうに望んだ結果である。自分が望んだ状態が実現したのだから、不満を言うのは的外れだろう。喜んで然るべきではないか。
私はこのヴォルラス氏の見方におおむね同意する。とはいえ、先進国は今もそこそこの成長をしていることにも注意が必要だ。中国のGDPが年6%超の増加などという話を聞くと、「先進国にはとても無理だ」という気になってしまう。
しかし、先進国と途上国ではそもそも一人当たりGDPの数値が大きくことなるので、その成長率の数字をそのまま比較するべきではない。
たとえば、日本の一人当たり実質GDPは中国の約3倍である。そのため、仮に中国の成長率が6%で日本の成長率が2%であったとすると、増加率では中国が3倍であるが、増加額では日中同じということになる。これがより顕著に表れるのが、米中の比較である。米国と中国の一人当たり実質GDPを比べると、成長率では中国がはるかに上回っているものの、成長の絶対額を比較すると、じつは今も米国のほうが大きい。つまり、米中の経済力の差は個人ベースではむしろ、どんどん広がっているのである。
1970年代の高度成長期までの時代はGDPの数字が幸せと直結していた。経済成長と生活水準の向上とはほぼ同義であった。食べていけるように、子供が育てられるように、子供が学校に通えるように......と、みんな必死に働いた。
しかし、今は大半の人にとって、とりあえず基本的な生活には問題がない状況が実現した。食事や住まい、義務教育や基本的な医療などに問題がなくなってくると、人々が次に望むのが生活の質のさらなる向上である。
今の人たちは半世紀前の人よりもはるかにいい暮らしをしているはずだが、必ずしも幸せに感じていない。それは人々の要求する水準もまた高くなっているからだろう。我々の幸せはGDPの数字ではなく、プラス・アルファの「何か」が決める世の中になってきたということではないか。(小田切尚登)