NHK傘下入り構想
危機対策に打ち出されたのは放送時間の短縮と人員整理。そして、科学技術放送に徹することと営業活動をしないことが提案された。じつは、これらのことは再建策の「切り札」を実現させるための準備。それは東京12チャンネルをNHKの傘下に入れてしまうことだった。
すでにあった教育チャンネルを報道専門に衣替えし、12チャンネルを教育チャンネルに据え、総合を合わせてNHKを3チャンネル体制にするという構想だ。その実現を見越して営業活動を停止し、人員整理を打ち出したのだった。
ただ、この「NHK構想」をかなえるためには、放送法の改正が必要。改正案は国会に提出されたが、労働争議に発展するほどの激しい反発もあり、審議されないまま廃案になってしまった。
東京12チャンネルの経営再建は、NHKの傘下入りがかなわず仕切り直しに。ちょうど1960年代後半~70年代前半にかけては、新聞社による在京民放の系列化の動きが進んでおり、電波行政に強い関心と影響力を持っていた田中角栄首相(当時)の介在などで、東京12チャンネルと日本経済新聞が系列関係となる。
日本経済新聞は同局の抜本的改革に乗り出し、財団による運営をやめて株式会社組織にすること、一般総合局に転換することを方針として決め、田中首相の後押しで、東京12チャンネルは再出発の態勢を整えた。
73年11月に「株式会社東京12チャンネル」に局名を変更。総合放送局に移行して新たなスタートを切った。テレビ東京になったのは81年だ。