きょうは先日50歳を迎えたばかりのTさんです。
飲み過ぎかしら。涙目ですがどうしたんでしょう。何かあったみたいですね。さっそく聞いてみようと思います。
「じつは昨年、父が亡くなりました。父は75歳だったので、団塊の少し前の世代ですね。60歳で定年を迎え、その後はゆったりと過ごしていましたね。父は『ザ・昭和』という頑固オヤジでしたね。定年後は少し丸くなったようには感じていましたけど。
今、父の遺品を整理していますが、おそらく父が定年後に書いたと思われるノートが見つかったんです」
失ったときに気づく「ありがたみ」
「その内容は、あまりに衝撃的でした。
・仕事ばかりで家族の時間を持てなかった
・妻を旅行に連れて行くことができなかった
『~できなかった』と後悔ばかりが綴られていました。
母もノートのことは知らなかったようです。父はこの内容を心に抱えたまま亡くなったのかと思うと不憫で。不憫というよりも、父のこんな思いに気づけなかった自分に対して苛立ち・後悔、もう『後悔』のひと言ですよ。もっと話をしておくべきだった......。」
人って身近に「死」を感じた時に「後悔」を感じ始めますよね。「死」だけでなく、何かを失った時。たとえば病気になった時など、健康を失ってようやく気がつくものです。「ありがとう」の反対は当たりまえとも言いますが、ふだん当たりまえにそばにあるものって、当たりまえ過ぎて「ありがたみ」を感じませんよね。
最近、恩師が病気で亡くなるなど、「死」というものを感じることが増えてきました。失ってから「後悔」するのでは本当に遅いって思います。後悔が消える、全部消えることはないのかもしれませんが、「後悔しないために今、できることをやる」それが生きるってことなのかなと思います。
ちなみに、わたしの中の今のテーマは、
「明日死ぬかのように生きろ、永遠に生きるかのように学べ」
ガンジーの言葉です。
生と死を完全に理解することはできないと思いますが、考えることはできるのかなと思います。