改正労働施策総合推進法が施行される2020年6月から、大企業を対象に、パワーハラスメント防止策への取り組みが義務付けられる。中小企業については2022年4月まで猶予があり、それまでは努力義務期間。深刻化する職場のパワハラに、政府が対策に乗り出したものだが、本書「1万人超を救ったメンタル産業医の 職場の『しんどい』がスーッと消え去る大全」によると、パワハラを行う人物に「変化」を期待することは、ほとんどムリだという。
自分の身は自分で守らなければならない。
「1万人超を救ったメンタル産業医の 職場の『しんどい』がスーッと消え去る大全」(井上智介著) 大和出版
非常に厄介な存在
著者の井上智介さんは、企業で産業医を務める精神科医。島根大学医学部を卒業後、数々の病院で内科、外科、皮膚科、救急科などのプライマリケアを学んだ。2年間の臨床研修修了後、産業医、精神科医、健診医の3つの役割を中心に活動している。
産業医として毎月約30社を訪問。精神科医、健診医としての経験を生かしながら健康障害や労災を未然に防いでいる。精神科医として、大阪府内のクリニックにも勤務。うつ病、発達障害などを中心として精神疾患全般に対応している。
産業医として著者が最も多く受ける相談は「上司との関係」。「部下を今までに何人もパワハラによって潰してきて、それを自慢するかのように語っている非常識な上司が少なくないのも事実」という。こうした人物は、会社内でも陰では「潰し屋上司」と呼ばれているのだが、そこそこ仕事ができて上層部の覚えめでたいだけに、非常に厄介な存在なのだ。
大原則は「近づかない」
近年はパワハラ被害の数々が報告されたが、パワハラする側は意に介さず(?)か、抑止力は働かず。ついには政府が動き出す。2019年に、職場でのパワハラ防止策に取り組むことを企業に義務づける「労働施策総合推進法」の改正案を国会に提出。改正労働施策総合推進法は、5月に参院本会議で可決・成立し、その内容から「パワハラ防止法」の別名でも呼ばれるようになった。この法律により、大企業は20年6月、中小企業は22年4月頃から防止対策が義務化される。
しかし、この間にもパワハラ上司側は「厄介な存在」ぶりを発揮。2019年8月、大手電機メーカーの新入社員の20代男性が自殺し、上司である教育主任が「自殺教唆の容疑」で書類送検されている。新入社員の男性が自ら命を絶った現場の公園には、教育主任から「死ね」などと言われたことなどを記したメモが残されていたとされる。
本書で井上さんは、このケースに言及したものではないが、こうした潰し屋上司に対しては正面から相手をしてはいけないという。潰し屋上司に何とか変わってもらおうといろいろと挑戦することは「まったくもってムダというしかない」ときっぱり。
「人はそんなに簡単に変われないし、少しの話し合いなどで変わるような上司であれば、部下に平気でプレッシャーをかけ続けることはしないでしょう」
だから、相手である上司を変えようとするのではなく、自分のほうが考え方を変えて対応する必要がある。その大原則は「近づかない」ということだ。
「近づかない」というのはどういうことか――。まず物理的な距離として、「できるだけ近づかないようにしましょう」と著者。潰し屋上司になるような人物は承認欲求が強く、自慢話を披露しては周囲に「すごいですね」と言われたいと考えている。うかつに近づくと、この欲求を満たすための存在として扱われるだけだという。
そのうえで心理的間合いを取るようにするのだが、その際に使うのは、うつ病などの治療に使われる「メタ認知」。その特質から、頭のなかで実物以上に巨大化してしまっている「潰し屋上司」を、「ちっぽけな存在」へと認知を変えるのだ。相手を小さく見ているからこそ、何か指摘されても心に余裕を持つことができるわけ。そして、「ご指導ありがとうございます」などと、過剰なくらい丁寧に礼をいえば、上司は承認欲求を満たされるだけで、こちらの内心には気づくことはない、と解説する。
「潰し屋上司」は「プチエリート」育ち
「潰し屋上司」のような人格になってしまう人物には、「中学、高校と成績優秀で、周囲から日常的に褒められるのが当然のような生活を送るものの、大学受験や就活で第一志望に進めなかった」というような経歴をもつ「プチエリート」が多い。第二志望に甘んじることを余儀なくされ、以前のような「周囲に認められる存在」だった自分が忘れられず、そのころへの回帰を目指して必死になる。目的を達成するためには、他人の足を引っ張ってでもという状態になり、周囲のことなど意に介さなくなる。
もともとの頭のよさなどがプラスされ、会社で結果を残す運に恵まれれば「仕事ができる人」という評価を得て発言権を獲得。他人のことなどおかまいなしにポジションを得てきたのだから「部下を潰すことくらい、何とも思うわけがない」のだ。
若い頃からのバックグラウンドから、もう一つ特徴的なのは「人に認めてもらいたい」という承認欲求の強さ。屈折した経験から欲求は肥大化して社内だけでは満足させることができず、明らかに気乗りしていない部下を飲み会に誘い出しては武勇伝を披露。「すごいですね」と褒められるのを待っている。
「彼らは自分の成功が最優先で、他者を犠牲にする世界が常に正しいと考えており、部下をはじめとした他人の気持ちやペースに合わすことができない」という、本当に「非常に厄介な存在」。著者は「君子危うきに近寄らず」の精神を徹底するよう、アドバイスする。
「1万人超を救ったメンタル産業医の 職場の『しんどい』がスーッと消え去る大全」
井上智介著
大和出版
税別1500円