今年もノーベル賞受賞者が発表される季節になりました。過去のノーベル賞受賞者で個人的に最も印象に残っているのが、アメリカの行動経済学者ダニエル・カーマン博士です。
カーマン博士の受賞理由は、行動経済学と実験経済学という新研究分野の開拓への貢献を評価されたもので、博士の代表的な学説としてプロスペクト理論があげられます。
人は「心理的」に違ったものに見えることがある
プロスペクト理論とは、選択の結果得られる利益もしくは被る損害と、それらの確率が既知の状況下において、人がどのような選択をするか記述するモデルのこと。この理論の発端となった具体的な実験例を引用して、プロスペクト理論を説明します。
とある機械メーカーが、経済的な理由で最悪は3つの工場を閉鎖し、6000人の社員を解雇しなくてはいけない状況になりました。この状況への対応策としてケース1、2 それぞれに、企業コンサルタントからA、Bの二つのプランが示され、被験者である企業経営者にどちらかを選んでもらいました。
(ケース1) プランA:3つのうち1つの工場と、2000人の職を確実に救うことができるプラン。
プランB:3つのすべての工場と6000人の職を救える可能性が3分の1。一方、工場も職もまったく救えない可能性が3分の2というプラン。
このケースでは、80%の被験経営者が、プランAを選択したといいます。
(ケース2) プランA:3つのうち2つの工場と4000人の職が確実に失われるプラン。
プランB:3つすべての工場と6000人の職が失われる可能性が3分の2。一方、すべての工場と職を救える可能性が3分の1あるプラン。
こちらのケースでは、82%の被験経営者がプランBを選択したといいます。
よくよく考えてみてください。じつは理論構成から言えば、ケース1も2もまったく同じプランの比較なのです。そうであるにも関わらず、「心理的に違ったものに見える」ために、被験者の選択が逆転してしまったということなのです。
では、いったいケース1と2では、被験者の選択基準としては何が違ったのでしょう。
ケース1は、「得るもの(確実に残せるもの)」に視点をおいた内容になっています。ケース2は、「失うもの(確実になくなるもの)」に視点をおいた表現でした。
人は確実に「得るもの」が見えるときには、それを「守りたい」と思い、逆に確実に「失うもの」が見えるときには、損失を回避するために大きな困難にも立ち向かっていくようです。
せっかく作った中期経営計画とビジョンは絵空事に
もう5年ほど前の話になりますが、製造業G社の三代目、T社長から相談を受けました。もともと芳しくなかった業績が、自身の社長就任以来さらにジリ貧。なかでもG社長は、社員の覇気のなさ、主体性のなさを気にかけていました。
そこで、T社長は過去に実質倒産状態の企業をV字回復させた著名経営者の講演会に出席。V字回復のカギと語られた「ビジョンを語る」ことで求心力を高めようと、業績回復に向けた中期計画を立てビジョンを策定して、社員にそれを宣言することで、社内の沈滞ムードを刷新しようと試みました。
しかし、結果は思うように運ばず、せっかく知恵を絞って作った計画とビジョンは絵空事状態に。どうしたら業績回復に向けて、社内を活性化できるのか、アタマを抱えていました。
カーマン博士のプロスペクト理論にそって考えるなら、T社長に欠けていたのは「ビジョンを語る」前に、そのビジョンの実現で「得るもの」あるいは達成できない時に「失うもの」を見せるということだったようです。
事業や計画が順調に運んでいるときは、ビジョンの達成で得るもの、たとえば株式の上場達成による社員一人ひとりの経済的恩恵などを見せることで、社員のモチベーションは向上します。
逆に業績低迷からの回復を図るのであれば、ビジョンが未達成の時に「失うもの」を見せることが重要になるでしょう。
ハッキリ言ったら、社員が辞めてしまうじゃないか!
一般的に「危機感が足りない」という言葉で表現される状況は、まさに今必要な行動をしない時に「失うもの」の認識がないという状態のこと。
そうです。G社の社員たちは危機感が足りない状態にあったから、社長が提示したビジョンへの反応が薄かったと言えるでしょう。
「倒産という言葉も厭わず『失うもの』をより具体的に社員に提示しましょう」。私は社長に進言しました。しかし、社長は「そこまでハッキリ言ってしまって、辞める社員がたくさん出ることになりはしないだろうか」と、「失うものの」提示を躊躇しました。 「社長、今これを言わなければ、会社は確実に倒産に向かうでしょう。今これを言えば、たとえ社員が半分になろうとも会社の存続は可能ですよ」
T社長は腕組みをして、しばらく押し黙ったままでしたが、ようやく口を開き「わかりました。私の言葉で具体的な危機感を社員に伝えましょう」と、私の進言を受け入れてくれました。
まさに、プロスペクト理論どおりの行動選択をT社長自身が、身を持って示してくれた瞬間です。どうにかして行動を起こさせたいと思う時に、プロスペクト理論が有効であることの証明でもありました。
G社はその後も紆余曲折ありましたが、今も健在。業績はようやく回復基調にあります。(大関暁夫)