「炎上」が阻む反省
炎上という現象の特徴は、その反射性・無思想性にも関わらず、自分という個人が攻撃されたように感じるという点にあります。その時に当事者の心にまず起こることは、自己防衛反応です。
自身の体験ともなりますが、震災後数年の間、福島県内の居住性・安全性を説く人々は軒並み「御用学者」と呼ばれ、常に炎上の対象となっていた時期がありました。
「福島では炎上を経験して一人前」
当時、発信を続けた人々のあいだでは、冗談半分にそのような言葉もよく聞かれたほどです。批判的な意見を冗談に置き換え、耳を閉ざさなければ身が持たない。当時の福島県内には、そういう雰囲気が流れていました。
もちろん、冗談として流すことのできた人々ばかりではありません。
「自分が直接事故を起こした訳でもないのに、なぜここまで責められなければならないのだ」
と悩んだ方々が、無差別な炎上に疲弊して
「自分が責められるのは世間が何もわかっていないからだ」
「言葉尻さえ捕らえられなければいいのだ」
と、むしろ世間から隔絶し、お互いに慰め合える場所に引きこもることもあったでしょう。私が心配することは、当時最も激しく糾弾された方々の中には、当時の傷が今も癒えず、耳を閉ざし続ける人がいるのではないか、ということです。
組織に対する炎上は「構図」として起きます。つまり個人の言動が引き起こしているように見られがちな炎上も、その責任を個人の言動に帰することでは根本的解決にはなりません。むしろその批判の中には、個人ではなく組織が反省するための材料が含まれていることが多いように思います。しかし炎上の持つ個人攻撃性は、その反省の機会を奪ってしまいます。
謝罪しても弁解しても、全ての発言が言葉尻を捕らえられ、炎上する。その過激な「加害者狩り」は、一部に存在している真っ当な批判をかき消すには十分すぎる社会現象でした。この突然の社会現象により、エネルギー、特に原子力に関わる多くの方の間には、今でも世間に対する不信が深く刻み込まれているように見えます。
「エモーショナルな意見は聞きたくない」
「何も分かっていない外野のことなど耳を貸さないことにした」
当時矢面に立った方々からは、今でもそういう言葉を聞くこともあります。
もし組織としての対処がないままにこのような個人単位の自己防衛が続けば、結果として組織の排他性が加速し、むしろ対外的に気を遣わない内向的な発言が増えるという結果にもなりかねないのではないでしょうか。