「そろそろ前向きな原子力の議論をしたい」
最近、原子力やエネルギーに関わる人々の間で、このような言葉を聞くことがあります。
原子力に関する非生産的な論争は、しばしばネガティブキャンペーンのシンボルとして福島を巻き込みます。それが風評被害の長期化へもつながっている、という背景を鑑みれば、原子力について前向きな議論をしたい、という意見自体にはうなずけるものもあります。
ただ、問題はこうした発言がいつ、誰に対して、どのように行われるのかについて、十分な配慮がなされていないように見えることが多い、という点です。
「炎上」の仕組み
ここであえて「見える」と書いたのは、当事者が本当にその配慮をしているかどうかは関係ない、という点を強調するためです。配慮の目指すところは、相手にそれを伝えることであり、相手から「気を遣っていることが十分にわかる」ことが重要です。
つまり、「配慮」というものは単なる善意ではなく、発信の戦略の一部として考える必要があると思いす。「人に伝えよう」という発信は、人を傷つけ得ます。それでも不要な争いは避けるべきです。そのような戦略を立てるためは、気持ちだけではなく技術が必要です。
本編と次稿では、これまで福島の中で見てきた事例から、組織が引き起こす「炎上」の仕組みについて考察するとともに、エネルギー業界を医療業界と対比することで見えてくる、配慮や反省という技術につき、述べてみようと思います。
人を社会的に攻撃するために有効な方法は、その人の加害者性・反社会性を強調することです。
「この発言に傷つけられた」
「あの振る舞いが社会に害をなしている」
炎上の多くは、匿名の集団が特定の個人を加害者として糾弾することから始まります。原発事故の後に福島県の居住区の安全性について説明した人々に対して、
「福島が安全と宣伝する人々は人殺しだ」
などといった発言が、よく見られたのもその例でしょう。
「加害者は悪」という金科玉条を掲げる人々が、それをもって効果的に人を攻撃する。いつのまにか加害者が逆転している、という皮肉な側面は、攻撃者が多数であり、匿名であることから、糾弾されることがありません。
このため、加害者性を煽る発信は、多くの社会運動で繰り返されてきた手段でもあります。インターネットとSNSという効率的な情報共有システムは、そのような「加害者狩り」を高度に効率化してしまいました。その結果生じたのが炎上という社会現象だ、というのが、私の印象です。つまり、炎上は便利な情報共有システムの発展が生んだ副作用、とも言えるのかもしれません。