誤解の一因は考察の恣意性にある
データの結果については、恣意性は可能な限り排除されます。しかし論文には「結果」だけではなく、結果に対する著者の「考察」が加わります。たとえば、ある値に統計学的有意差が出なかった時、「差がなかった」ことを考察するのか、「統計学的には差がないが平均値には差があった」ことを考察するのかによって、読者が受ける印象は異なります。そういう意味で、科学論文も新聞・雑誌と同じ「ジャーナル」であるという一面もあるのです。
この考察の仕方によって、論文が受理されるかどうかが決まる部分もありますので、著者にとって考察は自分の能力を試すとても重要な部分です。インパクトの高い考察を行わなければならない一方で、それが公表された時に社会に及ぼし得る影響にも気を遣わなければなりません。
多くの研究者は最大限の気を遣って論文を書きますが、それでもすべての方に配慮するのはとても難しいことです。福島の論文において「結果が歪められた」と非難される多くの場合には、データではなく、この考察部分が公正性を欠いているとみなされていることが多いように思います。
しかし、繰り返しますが、論文の考察と結論は「科学」ではなく「ジャーナリズム」の要素を多分に含んでいます。考察部分だけを読んで研究の正当性や研究者の公正性を批判することと、その研究の科学性を批判することが混同されてはいけないと思います。
ではなぜ、それでも論文を書くのか
ここに記述してきた「誤解」は、災害時の情報を世界と共有することの価値がしっかりと認識されていないことにもあるのではないでしょうか。被災地の情報を共有することが大切である、という認識がなければ、論文を書く人のモチベーションが理解できず、「どうせ名声のためにやっているのだろう」と思われてしまうからです。
では、災害時の記録はなぜ必要なのでしょう。いろいろな理由はありますが、私は一番大切なことは「未来への遺産」と「差別に対する武器」という2点だと思っています。
(1)未来への遺産
被災地の知恵を共有することは、未来に起き得る事件から「想定外」の要素を少なくする、という役割があります。2011年において、東日本大震災、特に津波と原子力発電所事故は、想定外の連続でした。しかし、あとから振り返って見れば、想定外と思われた事象の多くは世界のどこかで既に起きていた災害と驚くほど似ていたことが、わかっています。
「この情報さえ持っていれば、徒に時間を浪費せずに済んだかもしれない」
災害時に記録を残そうとした方々の多くは、そのような悔恨と、未来への使命感に駆られていたように感じます。それは、その昔津波の石碑を残し、文書を残した人々の気持ちと同じものなのではないかと思います。
記録の手段が限られていた時代には、人々は石碑や日記といった手段で何とか先人の知恵を残そうとしてきました。現代の私たちは、その当時からは比べものにならないくらい多くの情報伝達手段を手にしています。その中でも未来まで残り、かつ世界中と共有できる確率の高い記録が「学術論文である」というだけの話ではないでしょうか。