データ解析とその結果に対する誤解
こうした医学研究と論文に対する誤解に加え、論文において一番軋轢が生まれる原因は、
「データを集めている時点で結論はわからない」
という点ではないかと思います。
つまり、データ提供に同意をいただいたからといって、同意された方の目的に適うような結果が得られるとは限らない、ということです。
たとえば、ある方が福島は安全だ、ということを発信したいと思い、ホールボディーカウンターの結果を提供することに同意したとします。しかし、実際に測定してみたところ、その方の内部被ばく量が高かった、ということもあり得るのです。同意を取った科学者がこの結果を変えることはできません。
科学論文の性質を考えればこれは当たり前のことです。統計のためのデータからは恣意性を可能な限り排除しなくてはいけない以上、データ提供者の恣意もまた排除されなくてはいけないからです。
ただし、実際に自分の医療情報を用いた研究が自分の意図しない結論を引き出していたら、良い気持ちはしないでしょう。
たとえば、私自身も相双地区のスタッフ数が震災直後に激減し、18か月経っても回復していない、という論文を書きました。その時には、この結果を公表してよいか、ということを対象の病院に確認しています。なぜなら、この論文が、
「スタッフが逃げたと非難する気か」
「相双地区の医療の質が落ちたかのような誤解をされるのでは」
と、非難される可能性も十分あったからです。
公正に発表しようと思った結果、被災地の方々の意に副わない論文になってしまうかもしれない―― 福島で書かれた論文のいくつかが社会的に非難を受ける一因が、ここにあると思います。
このような事例は、疫学調査にはしばしば起こりがちです。たとえば昔、三種混合ワクチンの接種が自閉症のリスクを上げる、という論文が書かれたことがありました。今ではこの研究デザインと結果の解釈が間違っていた、ということが証明されていますが、統計というものは偶然そのように見える結果を出してしまうことがあります。
そして、それは必ずしも研究に参加した方が、もともと予測していた結論ではないこともよくあるのです。この例でも、
「あの時同意をしなければよかった」
と、後悔した方もいたかもしれません。
前稿で、観察研究によって「身体的影響を受ける患者さんはいない」と書きました。しかし、上記の論文によるその後のワクチンの接種率低下とその社会的影響を考えれば、たとえ観察研究でも精神的・社会的影響は必ずしもゼロではないのです。
これは、これまでの観察研究であまり患者さんに説明がなされてこなかった点かもしれません。