行動で示した「常に国民と寄り添う」姿勢
1995年にも同様の出来事がありました。阪神淡路大震災の発生後に被災地を慰問に訪れた際には、当初予定されていた御料車での被災地巡回を断り、随員と同じバスでの巡回を実行させました。
そして避難所では、普賢岳災害の際と同じく自ら膝をついて被災者一人ひとりに語りかけ、あるいは相手の手を取り、あるいは背中をさすり、真の意味で「国民と目線を合わせた」象徴天皇の姿でした。まさしく「守」の延長線上に「破」を見た思いでした。
2011年の東日本大震災をはじめ、他の災害の折にも、被災地で被災者と目線を同じくして励まされる陛下の姿は、常に国民の目にするところでありました。陛下が平成の時代に災害の被災地を訪問された回数は37回にものぼるそうです。
昭和天皇が、天皇としてはじめて歩まれた「象徴」の道をしっかりと歩みつつも、自らの意思で昭和天皇とは異なるやり方でさらに一歩進めた「象徴」の姿を具現化したと言えるでしょう。
すなわち、事あるたびに口にされてきた「常に国民と寄り添う」という姿勢を、行動で示されてきたわけです。
そして「令和」になって、上皇は近代以降の、過去のどの天皇とも異なる、約200年ぶりという生前退位を決断されたわけです。世阿弥の言うところの「離」であったといいでしょう。同時に、新天皇に「常に国民と寄り添う」気持ちを伝えつつ、その座を譲ることで、新たな「守・破・離」を託したのだと、私の目にはそう映りました。
このゴールデンウィークに、平成から「令和」への改元に際して、上皇がこれまで示してこられた継承における「守・破・離」の姿勢を、改めて認識させられるとともに、経営者が後継者に地位を譲る際、また後継者が先代から地位を譲り受ける際にも、大いに参考になる部分が多いと感じ入った次第です。(大関暁夫)