地位でも事業でも、「承継プロジェクト」は難しい
地位にしろ、事業にしろ、承継プロジェクトは本当に難しいものです。
先代が立派であればあるほど、あるいは何かを新たにはじめた人物であればあるほど、後継者はその立ち位置の置き方が難しくなります。先代と同じように振る舞えば振る舞うほど、周囲からは次第にその価値を低く見られがちになり、そうかと言って自らのオリジナリティを出そうとすればするほど、おかしな方向に迷い込んでしまったりするものです。
室町時代の能楽師、世阿弥は、自分の後を継ぐ弟子たちに、芸の継承の心得を「守・破・離」の言葉で教えたと言われています。「守」とは、第一段階。先代のやり方を徹底して真似て、まずはそれに従うということ。その真似が板について、すっかりマスターできるようになったら、第二段階である「破」に移行します。「破」は、先代のやり方を破るという意味で、先代にはないもの、すなわち自分のオリジナル要素を入れて応用を効かせてみるというステップです。
そして先代のスタイルに自身のオリジナルを加えてそれが安定したなら、いよいよ第三段階「離」に移行します。「離」とは先代を離れて、今度は自身が後継を育てられる段階、すなわちいつでも後継に道を譲れる段階に至る、というわけなのです。
この「守・破・離」の精神。昭和天皇のあとを継いだ上皇の承継は、まさにその流れをなぞられたと思います。昭和天皇崩御に伴う上皇の天皇陛下としてのスタートは、「守」そのものでした。「象徴」としての出過ぎない行動を守りながら、存在感をしっかりと国民に印象づけていく、その一挙手一投足には戦後の昭和天皇の姿がそこここでだぶる部分が多いと感じられました。
そして1991年、雲仙普賢岳噴火災害の際に、ひとつの衝撃的なシーンが国民の目に飛び込んできました。大火砕流から1か月後、噴火もまだ鎮静化していない時期に、陛下たっての希望で被災地を訪れ、多くの被災者が避難所生活を送る体育館で膝をついて被災者と同じ目線で話をされている姿が、テレビを通じて映し出されたのでした。