研究者にとっての情報収集というリスク
なぜ情報は必要だったのか――。
「では、なぜその情報が支援活動だけでなく、研究者の論文ネタとなっているのだ」。そのような言われ方をすることもあります。被災地の情報が専門家や研究者と共有されるべき理由には主に2つあります。
一つは、たとえ資料を扱うのが行政や企業であったとしても、情報の中には専門家にしか解析できない情報が多々あるためです。たとえば、糖尿病やがんの疫学情報は医学研究者や疫学者の解釈が必要ですし、福島における放射線被ばく量や空間線量の解析には原子力の専門家が必要でした。
もう一つは、情報の発信を行政だけが行っていても、その発信先は限られてしまうためです。特に世界における未来の防災に役立てたり、風評被害を払拭したりするためには、新聞や行政のホームページだけでなく、学術誌にも発信していく必要がありました。
そのため、被災地の多くの情報は、いろいろな分野の研究者に提供される必要があったのです。端から見たら、被災地に研究者が「群がってきた」と見えてしまった一つの原因が、ここにあると思っています。
自省も込めていうならば、研究者も含めデータを取り扱う人は、個人情報をいただくことの重要性を住民の方々や患者さんに十分説明してきませんでした。また、情報を提供いただいた方々への感謝の表明もおろそかにしてきたきらいはあります。
個人情報をいただいた以上、発信された情報はその提供者にも有益でなければならない。研究者はその点をもっと強く自覚しなくてはいけないと思います。
一方、情報共有の大切さが認識されないがために、被災地の研究者にとって、個人情報を取り扱うことはそれだけで社会的批判を受けるリスクにもなりました。
「己の名声のために自分たちのデータを利用するのか」――。被災地の風評被害を払拭しようと論文を書いた結果、そういう誹りすら受けた経験は、福島県内の研究者であれば少なからずあるのではないでしょうか。
災害直後に被災地に入った研究者は、日ごろから個人情報を使い慣れていた方とは限りません。そのため、個人情報の取り扱いの法的・社会的な難しさをあまり意識せず、社会のためという一念のみで研究を遂行した後に予測外の反駁に驚いたという方も多いのではないかと思います。
被災地で論文を書いた方、書き続けている方の多くは、偶然に被災地とかかわり、その窮状を目の当たりにしてきた人々です。風評被害を防ぐため、あるいは今後の被災地に貢献するために情報を集め、社会的リスクを冒して世界に発信しようとした。当時の被災地の研究者のほとんどは、そういう方々であったと思います。