情報収集の「適切さ」とはなにか
まず、災害時の個人情報の収集が適切であったかどうかについての議論には、どのようなものがあるでしょうか。
記事やネット上の書き込み、地元の方々の意見などを眺めていると、大まかに以下に分類されるようです。
(1) 患者・住民への同意を取るべきであったのか、あるいは取り方が適切であったのか(法律上の問題)
(2) 情報の取り扱いが適切であったのか(セキュリティの問題)
(3) 収集した情報の提供先が適切であったのか(信頼の問題)
(4) 情報の解析や解釈が適切であったのか(学術的な問題)
(5) 情報を発信すること自体が適切であったのか(倫理の問題)
これらの議論がきちんと分けられず、混同されることで、たとえば自分のデータが自分の意図しない結果を生んだことで、「同意していない」という議論になってしまったり、法律や指針を守れていなかったりすることが「人道的な問題」のように言われてしまう。あるいは、情報の取り扱いが適切でなかったことが「違法」であるかのように言われてしまうなど、さまざまな誤解が生まれ得ます。
住民の方にとって、自身の情報が不当な扱いを受けたかのように感じることは、あまり幸せなことではないでしょう。そのためにも、個人の情報を社会に還元する際のルールと問題点につき知ることは必要だと思います。
ところで、なぜ災害時の情報共有はそれほど必要なのでしょうか?
情報取り扱いの議論を行う際、私たちはまず、そのことを被災地の方々に知っていただく必要があると思います。それが理解されない限り、当時の研究者たちの態度は、「名誉欲に駆られた研究者がこぞって被災地の情報に群がってきた」かのような誤解を受けてしまうからです。
実際に、災害後に最適な支援を行うため支援者が最も必要とするものは、信頼のおける被災地のデータです。その中には、津波被害や放射線量などの環境にかかわるデータも含まれます。しかし、被災地の人々と直接かかわる人々にとって、特に重要な情報は、やはり個人の情報、それも健康に関わる情報でしょう。
これは支援だけでなく、その後の町の復興や地域創生時の福祉計画にもかかわる重要な情報なのです。
たとえば災害直後であれば、どこにどれだけの方が避難していて、どのような健康被害を受けたのか、どんな治療が必要だったのかという情報。これがなければ支援者は必要十分な医療資源や人的資源を被災地に送ることができません。また災害急性期を過ぎた後であれば、被災者の間に長期的な健康被害は起きているのか。起きているとすれば、どのような人が被害を受けやすい「災害弱者」なのか。それを知ることで、適切な補償やその後の支援の優先順位を決めることができます。
このような問題に限らず、被災地で日々浮上する、さまざまな不安や疑問に答え、適切な資源を配分するためには、被災地の方々の健康に関わる詳しい情報が必要です。そして判断根拠の信頼性を担保するためにも、その資料は一次資料か、せめて2次資料の形で提供されることが望ましいのです。