31年ぶりに、元号が「令和」に代わった。新元号を1か月前に予告するのは前例がない。
今回、そのようにした理由は「平成」改元の日に、日本は例をみない慌ただしさに包まれていたからだ。
元号「平成」わずか8時間で決定、発表のドタバタ
昭和天皇の崩御は、昭和64(1989)年1月7日午前6時33分。その日の午後2時36分、すべての審議、閣議を終えた故・小渕恵三官房長官が「平成」の元号を発表した。
翌1月8日零時から「平成元年」1月8日になるということで、政府の動きは敏捷であった。テレビの小渕さんは「平成」と書かれた額を、すべてのカメラマンが撮り終わるまで掲げ続けた。その実況放送は、全国の津々浦々に放送された。平均視聴率は58.1%を記録したとされる。じつに国民の半分が、その瞬間を目撃したことになる。
たった一日で、全国民に元号が代わったことを浸透させるために、昭和に普及したテレビの力をいかんなく発揮した戦略的行動であった。
町は崩御を追悼するために、すべての正月飾りを撤去。赤提灯は白提灯に、国旗はすべて半旗に揚げ直した。その一方で、公的機関のゴム印が「平成」に直す成形作業と、ゴム印作りで版元では突貫作業が続いた。
さて、明けた平成元年1月8日には、当日消印を求め、めざとい国民が郵便局に列をなした。平成にあやかって、次々に「平成」が入った企業名が登記された。平成名の企業は全国で1270社(東京商工リサーチ、2018年3月7日発表)である。そのほとんどが平成ひとケタに登記している。
主な企業には、「平成観光」「平成興業」「平成紫川会」「平成帝京大学」「平成建設」などがある。これらの企業に取材を申し入れたが、ほとんどが丁重ではあるが協力を拒んだ。
しかし、その中にあって、「平成」名を生かした帝京平成大学が応じてくれた。同大学は高度成長時代から情報社会に変わる兆しを読み、昭和62(1987)年に「帝京技術科学大学」として開学。平成に入り、多様な情報社会に向かっていることを察知して技術科学という技術色を抑え、平成7(1995)年に「帝京平成大学」へと名称変更したのだった。