福島第一原子力発電所の事故後の議論の中で、いまだに解の見えない問題に、「避難指示」があります。
避難すべきか否か、避難区域の設定はどうすべきか、避難時の適切なコミュニケーションは? さまざまな切り口がありますが、そのすべてについて未だ明確な答えはありません。
地震からの避難 双葉南小学校の場合
地震や津波という大災害の後に出された避難指示に対し、人々はどのように反応したのか。実際に避難された方の体験をお聞きすることは、私たちにとって貴重な学びの機会です。
しかし、人の記憶は必ずしも当時を正確に反映するとは限りません。たとえば、災害弱者と言われる高齢者や子どもは、その時のことを正確に語ることができないことも多いでしょう。
また、「一番つらい記憶は人に言うことができない」という方もいます。そのようなとき、時に人以上に雄弁に状況を語ることができるのが、現場に残された「物の記憶」です。
双葉町には、当時の避難の日のままの爪痕が残されています。つらい風景ではありますが、それは同時に当時そこにいた方々の、言葉にされなかった貴重な「記憶」ではないかと思います。
地震、津波、そして原発事故というトリプル災害は、まったく同時に起きたわけではありません。双葉町で見た3つの施設からは、各々の災害の発災時に人がどのように避難していったのか、当時を振り返ることができます。
双葉南小学校は、原子力発電所から約3キロメートルと近いため、(2011年)3月11日には夕方に体育館の一部へ近隣の方が10名程度避難したものの、すぐに別の避難所へ移動し、その後一度も避難所にならなかった場所です。
そのため、ここには地震が起きた直後の状態が今も残されています。
その日はちょうど大掃除とワックスがけの予定だったようで、机はすべて教室の外に出されていました。その教室の床に、生徒が整列したままの状態でランドセルが置き去りにされています。
玄関の靴箱周辺にもランドセルが散らばり、運動靴もそのまま残っていることから、一部の生徒は下校直前に地震に遭い、そのまま戻ってこなかったことがうかがわれます。
大地震の後、建物の中に戻ることは危険です。
「建物は無事だったし、ランドセルは地震が落ち着いたら取りに戻ろうね」
大切なランドセルを取りに戻りたがる子どもたちを説得して帰宅させた親御さんもいたかもしれません。
「ここにランドセルが置かれている、っていうことは、この子どもたちは、避難先の始業式を使い慣れた自分のランドセルなしで迎えたっていうことです」
Hさんの娘さんも当時は小学生1年生だったといいます。私自身も転校の経験がありますが、周りが持っている普通のものを持っていないというだけでちょっとしたいじめの対象になりました。
ランドセルも教科書も体操服も持たないままに突然始めなくてはいけなかった転校生活を想像するだけで胸が詰まります。
「ランドセルや思い出の品を取り戻したい、っていう声はなかったんですか?」
思わず口をついた質問でしたが、回答を聞いて私は自分の無神経に気づきました。
「震災直後には保護者からの数件問い合わせがありました。思い出の品を取り戻したい気持ちはあったと思うんですが、あまり聞きません。当時は取り戻しても放射能に汚染されている可能性があると考えて、使えなかったと思います」
あまりにも「そのまま」の風景にすっかり忘れてしまっていましたが、ここにある「思い出の品」は、すべて「放射能に汚染された物」という言葉がつきまといます。素直に懐かしんで、触れて、抱きしめることができない。それはもしかしたら物だけに限らず、震災以前の「思い出」すべてに言えることなのかもしれません。
子どもたちは、15歳になれば帰還困難区域に入ることができます。そんな子どもたちが、いつか思い出を取り戻したいと思えるのだろうか。そんなことが気にかかりました。