20世紀末にあった、その先の未来と福島
今の福島の若者への期待を見ていて、ふと思い出すのは20世紀末の学校教育です。私自身、小学生の頃からことあるごとに
「君たちは21世紀を担うのだから」
「21世紀を生きる君たちは〇〇しなければ」
と言われて育ちました。
しかし、数年後に迫った21世紀にも生きているであろう大人たちが他人事のように小学生に期待をかける様は、子供心にも滑稽であったことを覚えています。その20世紀末と同じことを今、私たちは「福島の子ども」にしてはいないでしょうか。
いくら珍しい体験であったとしても、それは当事者にとっては「日常」です。若者のイノベーションに期待するあまり、「君たちは普通とは違う」と教えることは間違っています。また、「普通にしていればよい」「普通にしていたい」という子どもたちを無理やり舞台に引きずり出すことも避けなくてはいけないと思います。
当たり前のことですが、体験と発想は、決して直線関係にはありません。つらい体験をしたから、すぐに深い意見が言えるようになる。珍しい体験をしたから、新しい発想が生まれる。体験とはそんな単純なものではないと思います。
長い人生の中で、何かをきっかけにその日常を振り返ったとき、自分の価値観が何の上に立っているのかに気づく。経験とはそういうものではないでしょうか。福島の経験が今の福島で、廃炉現場で、花咲かなくてはいけない理由はないのです。
ただし、そんな私の思惑もまた、子どもたちにとってはつまらない大人の理屈なのかもしれません。なぜなら子どもたちはすでに、福島を歴史として振り返ることを始めているからです。
「福島のことについて初めて知ることも多かった」
「廃炉が何十年も続くのだから、自分たちの代が福島のことを知らなければいけないと思った」
「廃炉の技術を通して、福島を世界一へ」
前述のセッションで驚いたことは、学生が非常に客観的に福島を見ている、ということでした。
大人にとってはまだ記憶に新しい現地の体験も、過去の歴史として素直におもしろいと感じることができる。もしかしたら、それこそが子どもという生き物の強さなのかもしれません。
この7年余りの福島で、過去の普通を守り、新しい普通を探り、そして外部から押し付けられる普通と戦ってきた大人の記録。その故きを温ねる若者の旅は、まだ始まったばかりです。その旅が花咲くのは50年後であっても、福島の外の出来事であっても構わない。私はそう思います。
そして、その時を夢見させてもらいながら、今、重厚で愉快な歴史を編むことこそが、私たち大人の役割なのではないでしょうか。(越智小枝)
地球温暖化対策への羅針盤となり、人と自然の調和が取れた環境社会づくりに貢献することを目指す。理事長は、小谷勝彦氏。