【IEEIレポート】福島だより 「普通」とイノベーション(越智小枝)

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沈黙する家族と自制する教育現場

   「福島の子どもたち」が「フクシマ」を知っているのか――。

   とりわけ私たちが認識しなくてはいけないことは、福島の子どもだからといって、社会問題としての「フクシマ」について詳しいわけではない、ということです。子どもの情報源のほとんどは家庭と学校、そしてマスコミです。そのいずれもが、当時の子どもたちに社会の複雑さを教えてはいませんでした。

   私が相馬に住むようになった2013年頃、浜通りではママカフェ、パパカフェという活動が盛んに行われていました。これはお母さんやお父さんが、家族にも話すことのできない放射能に対する不安やその他のさまざまなストレスを語る場として設けられたものです。

「家族の中で放射能の話は喧嘩になるから禁忌。しゃべるのは外に出た時だけです」
「むしろ外のイベントで自分の子どもと会話する場を作ってほしい」

   南相馬の親御さんたちに聞いた話ですが、これが多くのご家庭の実情だったのではないかと思います。

   家庭という閉じた空間で放射能や原発というセンシティブな話をすることは、意見の対立による家族の分断を生みかねません。それがわかっているからこそ、親御さんは家庭の外で原発事故に伴うどんな難しい問題が生じても、それを家庭に持ち帰って話す、ということはなかったでしょう。

子どもたちは「自粛」の空気を敏感に感じとっている
子どもたちは「自粛」の空気を敏感に感じとっている

   そして学校もまた、子どもたちに情報を与えていたとは言えません。学校で放射線についての授業を頼まれた時、原発の話は避けるのが当たり前でした。

   さらに、

「がんという言葉やがんの写真はショックを受けるかもしれないので避けてほしい」
「『死ぬ』という表現を『生きる』という表現に書き換えられないか」

   そんな要望も聞かれました。

   子どもに気を遣いすぎて、貴重な教育の機会を失ってしまうのではないか。当時過剰に口を閉ざす大人たちを見て、じつは内心そう感じていました。

   私のその考えが変わったのは、2015年、福島県内の国道6号線沿いの清掃活動が5年ぶりに再開された時の騒動を見てからのことです。

「子どもがセシウムを吸い込む『被ばくイベント』」
「放射能に汚された福島『6国』清掃活動」

などと報道され、関係者が口撃の対象とされたことは記憶に新しい方もいると思います。しかし、当時ジャーナリストを名乗る人々が、ボランティアに参加した高校生たちを執拗に追いかけたこと、さらに関係のない学生や教師にまでインタビューを求める騒ぎとなったことは、あまり知られていません。その影響もあり、翌年の清掃ボランティアでは高校生の参加者が激減したといいます。

   目立つ行動をすれば放射能やフクシマに対する激しいバッシングの矢面に立たされる。そんななか、子どもたちが不用意な発言でいじめられることのないよう、大人は最大限の気を遣わざるを得なかったのではないでしょうか。

   この地域の複雑さや難しさについて子どもたちが一番敏感に感じとったのは、その「自粛」の空気であったのではないかと思います。

   さて、今の福島はその3年前に比べて子どもたちを社会の口撃から守れるだけの土台が十分作られたでしょうか? 私はそうは思いません。そんな環境で、少なくとも公衆の目前で新しい、とがった発想を求めることは、まだ性急に過ぎるかもしれないのです。

   このような社会の整備も含め、大人は子どもにイノベーションを期待するだけの責任を果たしているのか。私たちはそれを反省すべき時に来ていると思います。

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