社員の4人に1人がタバコを吸っていたのに、2年9か月で喫煙者ゼロにした会社がある。いったいどうやって全員の禁煙を成功させたのだろうか。
2018年11月14日、働く人を受動喫煙から守る「喫煙社員ゼロチャレンジ事務局」(荒島英明代表)が主催する講演会「さあ始めよう全社員禁煙」がアビタス新宿セミナールーム(東京都渋谷区)で開かれた。J-CASTニュース会社ウォッチ記者が取材した。
朝礼で社長が流した「涙」が始まりだった
この会社は、健康支援サービスの「ティーペック」(東京都台東区)だ。医師・看護師ら医療スタッフによる24時間電話健康相談や、医療機関の受診手配、セカンドオピニオンの紹介サービス、メンタルヘルス・カウンセリングなどを行なっている。同社で中心になって「喫煙社員ゼロ運動」に取り組んだ益満秀一・商品開発部部長が講演した。益満さん自身、日本禁煙学会が認定する「禁煙専門・認定指導者」の資格を持っている。
益満さんによると、同社で「喫煙ゼロ運動」を始めたのは2013年3月のことだった。砂原健市社長の鶴の一声だ。「お客様の健康を願うティーペックの社員が健康を害するタバコを吸っていては説得力がないだろう!」と全社員に禁煙運動を呼びかけたのだ。
「きっかけは顧客からのクレームでした。保険会社の研修で肺がん予防の講師を務めた社員が控え室でタバコを吸っている姿を見られ、『なんだ!』と抗議がきたのです。また、お客様と商談中、タバコのニオイがプンプン漂う社員がいて、不愉快だというクレームもありました」(益満さん)
じつは砂原社長自身、かつては一日に2箱以上吸うヘビースモーカーだったが、10年前にやめていた。砂原社長には30年前の会社設立時、先輩や同僚など7人の恩人がいた。しかし、そのうち5人はがんと脳梗塞で早逝した。全員喫煙者だった。タバコを吸わない2人は健在だ。62歳で逝った先輩の死の直前、砂原社長が病室に見舞うと、先輩は社長の手を握りながら、こう言った。
「あんたのように早くタバコをやめておけばよかった」
砂原社長は全社員が月に一度集まる朝礼で「喫煙ゼロ運動」を宣言した時、オイオイ泣きながらこの話を披露したのだった。
「部長のタバコ臭さがイヤ」という部下の声
「喫煙ゼロ運動」は、全社員に喫煙に関するアンケートを行なうことからスタートした。社員172人中43人がタバコを吸っていた。4人に1人、喫煙率25%(男性40%・女性10%)だった。喫煙者にとって、タバコを吸わない同僚の生々しい批判の声が何よりも応えたと、益満さんは指摘する。
「喫煙している上司や先輩と飲食に行くと、当然のように喫煙室に座ることになるのが、イヤでたまらなかった」
「タバコ離席は、サボリと同じだ。取引先から電話が入ってもつなげず、迷惑だ。戻ってきた人の息や服が臭くてイヤな思いをしている」
「私はぜん息があるので、喫煙者の横にいるだけで、咳が止まらなくなる」
「自分の命を粗末にするのは本人の自由だが、有害な煙や悪臭のする息を他人に浴びせる自由はないはずだ」
といった、普段思っていても口に出せない批判の声だ。
こうしたアンケートの声は、すべて社内メールなどで公開した。
また、タバコがいかに健康を害するか、啓発の情報サイトも作り、次のようなデータをわかりやすいイラストや動画で紹介した。
(1)タバコが原因で死亡したと思われる有名人のリスト。川村カオリ(歌手・乳がん・享年38)、坂口良子(女優・結腸がん・57)、忌野清志郎(歌手・咽頭がん・58)、中村勘三郎(歌舞伎役者・食道がん・57)、筑紫哲也(ジャーナリスト・肺がん・73)......。
(2)喫煙者のがんのリスク(吸わない人に比べ)。肺がん(15~30倍)、咽頭がん(10倍)、乳がん(3.9倍)、食道がん(2~5倍)、子宮がん(2.3倍)...。このほか、糖尿病、心臓病、脳卒中、高血圧、結核、ぜん息、難聴...などの多くの病気の原因になる。
(3)喫煙による労働ロス。タバコを吸いに席を離れることが以下に生産性を落としているか、数字で示す。1回7~8分で5回離席するとして、1日に約35分。年間25万円相当の損失! また、ニコチン切れによる意欲の低下。
(4)欧米の双子研究から、一卵性双生児でも喫煙者と非喫煙者では老化の進行が異なり、30年間で母娘ほど外観が違ってくることを写真で比較。
これらのデータを月に一度の朝礼でもスライドで見せた。
また、オフィスの外廊下にある喫煙場所(バケツ)を撤去した。
禁煙成功者には朝礼で表彰状と「金一封」
しかし、こうした啓発や強制手段だけでは効果が万能とはいえない。「禁煙成功者」を表彰することにした。朝礼の場で、砂原社長自ら成功者に表彰状と「健康促進祝い金」として1万円の金一封を贈った。それだけではない。成功者はその場でいかにして禁煙を達成したか、体験談を語るのだ。
「この体験談が絶大なインパクトを与えました。『俺は絶対にやめないと豪語していたあの部長までやめたのか!』という驚きです。体験談で『正直、社長の熱意はどこかで冷めるだろうと思っていたが、成功者たちの体験談が効いた。取り残され感があった』と、打ち明けた人もいました」(益満さん)
また、禁煙外来利用者にも2万円の補助金を出した。ただし、禁煙外来に行った者は意外に少なく、約2割の9人だけ。
「医師が処方する禁煙薬に副作用があるという誤った情報が伝わったためと思われます」(益満さん)
しかし、「身から出たサビ」なのに喫煙者ばかりに手厚く「祝い金」や「治療費補助」を出すと、タバコを吸わない人に不公平になる。そこで、不公平感をなくすために、非喫煙者にも「健康手当」として毎月3000円を支給した。年に3万6000円という大変な収入増だ。ずいぶん思い切ったものだ。
益満さんはこう説明する。
「喫煙者だけでなく、吸わない人も含めて全社をあげて取り組むことが大事だったのです。タバコの害のスライドや動画も、喫煙者だけを集めて行なうと、暗くなるので、全社員が朝礼で見ました。たとえば、東日本大震災直後では、放射能汚染よりタバコの受動喫煙のほうが怖いという啓発動画を全員で見たものです。みんなで取り組むと、喫煙者は『よし、やめなくては』という気持ちになりやすくなります」
メンタルヘルスの世界では、依存症の患者の治療などで、「ポピュレーション・アプローチ」という言葉がある。患者だけでなく、周辺の人々まで巻き込んで、多くの人々が少しずつリスクを負担すると、集団全体がよい方向に向かうことをいう。また、「ピア・プレッシャー」(同調圧力)という言葉もある。患者周辺の人々からの監視によって生じる心理的圧迫感のことだ。
益満さんは、
「禁煙は個人だけの努力では難しいものです。最初からそれを狙ったわけではありませんが、結果的に全員が同じ目標を目指すことで、タバコを吸いにくい環境づくりに成功したと思います。特に、テレビ東京の『ワールドビジネスサテライト』でわが社の試みが取り上げられたのが決め手になりました。『これでもう、やめるしかないと覚悟が決まった』と言った人がいました」
と、組織で行なうことの効用を指摘する。
採用条件に「喫煙者お断り」と載せると好評
全社禁煙に取り組んでいることを、会社のホームページを通じて内外に広めたことも大きい。社員の採用条件に「非喫煙者に限る」と明記すると、逆に応募者が増えたという。
「健康に気を使った会社という、いいイメージで受け止められたのでしょう。また、喫煙者が放つイヤなニオイを嫌う人が非常に多いということです」(益満さん)
ちなみに同社では、外来者に対して「喫煙終了後、45分たってからの入室をお願いします」とドアに掲示してある。タバコの煙が最低45分間は衣服や体に付いているからだ。
最後まで残った2人が同時に喫煙を止めて、朝礼で表彰されたのは2015年12月。砂原社長の「涙のゼロ宣言」から2年9か月後だ。同社では、半年間禁煙を続けると「成功」と判断、人事部に届けることで「成功者」となる。あくまで自己申告だが、リバウンドした者はひとりもいないという。
講演終了後、J-CAST会社ウォッチ編集部記者をはじめ聴衆から益満さんに質問が相次いだ。
――リバウンド者がいないということですが、あくまで自己申告なわけですね。社員がウソをついている可能性はありませんか。
「社員は信じるほかはありません。ウソをついてもニオイが45分間残りますし、小さな会社だからすぐ分かります。」
――わが社では、かつて強権的なワンマン社長がトップダウンで『喫煙撲滅』を宣言したが、成功しませんでした。喫煙率25%からゼロにしたわけですが、何年間でゼロにするという強制的な数値目標があったのですか。
最大の抵抗勢力は役員会だった
「禁煙成功者からアンケートをとると、成功の要因で一番多かった回答は『会社トップの方針』、つまり社長のリーダーシップです。一貫してブレませんでした。しかし、数値目標はありません。何年かかってもいいからゼロにするということです。決して強制はしない。優しくタバコの害を刷りこんでいく。組織の力で自然にやめていったということです」
――社内に抵抗はなかったのですか。労働組合が「労働者には喫煙する権利があり、個人の嗜好に会社が制限を加えるのはおかしい」と反対するとか。
「労組はありません。じつは抵抗はありました。上層部です。役員、部長、次長、課長ら幹部は計40人で、喫煙者は13人。喫煙率は33%で、全社の25%より高い。特に役員は7人中4人が吸っていました。あからさまな反対行動はありませんでしたが、『無言の抵抗』があったのは確かです。
しかし、社長の熱意がとおって、この層から率先して止めていったのが大きいです。『俺は絶対止めない』と言っていた幹部が、朝礼で表彰されるのを見て、『ええっ、あの人も!』と次々と続いたわけです」
(福田和郎)