安物が好きだ。同じモノを買うなら1円でも安く手に入れたいし、ネット通販で買った服が後日、セールになっていたら地団駄踏んで悔しがる。長距離移動は多少疲れても高速バスがいいし、物件選びの際は少々不便でも、家賃が安い部屋をとる。
直感的に行動していたら、必ず価格の安いほうを選んでしまう。まるで大阪のおばちゃんのごとく、「コレ、58円で買ったんやで」などと自慢してしまうので、周りから「どうしてそんなに安物が好きなの?」と、不思議がられることが増えてきた。
ふつうは年齢とともに、ある程度コストを支払っても質のいいモノやサービスを好むようになるケースが多いのに、私はそうじゃないから、変なヤツだと思われているのだろうか――。
コスパがよくなければ、絶対に満足できない
先日、ある大企業の取材を受けた。テーマは「現代女性の消費行動」。自分が女性を代表できるとは思えないので断ろうかと思ったが、1時間半で1万円のギャラだというのでお引き受けした。もう本当に現金だが、背に腹は代えられない。
相手は、40代の中間管理職の男性。アラサー女性の消費行動について知りたいとおっしゃるので、わが安物買いの極意をとうとうと説いた。
「私が最も重視するのはコストパフォーマンスです。同じことをやるなら少しでも合理的に、自分が支払った以上のオトク感をもらいたい。もともと想定外の事態に弱いので、高いものやサービスを買って満足できなかったときの『こんなはずじゃなかった感』を想像するのがイヤなんです」
担当者は、ふんふんと熱心に耳を傾けてくれたのちにこう述べた。
「北条さんは、すべてにおいて『コストパフォーマンス』や『合理性』を重視されているようですが、たとえば子育てをしたり、家族をもったりすると価値観が変わったりすることはありませんか? 僕も20代の頃は安いものを選んでいたのですが、家族をもってからは少し考えが違ってきたんです。コスパだけでは測れないものがあるというか......」
大学まで面倒みると数千万!
ああ、そうか! と納得した。確かに子育ては、コストパフォーマンスの対極にある。出産からして母体にはリスクが伴うし、幼子を育てている友人を見ると、自分には想像もつかないほどの苦労をしている。
命を預かる大変な営みにもかかわらず、周りからは「母親だからやって当たり前」と感謝もされず、仕事と家庭の両立に苦しんでいるのに「子供の笑顔を見たら、やっぱり子供がいてよかったと実感する」など満足そうである。
私にはそれが、理解できないのかもしれない。そして、理解できないことがコンプレックスだ。一応、健康なカラダがあって、パートナーがおり、経済力もないとはいえないのに、子育ては「コスパが悪い」ように見えるから子供をつくろうとしない。そんな自分に気が付いてしまった(まったく、罪作りな取材である)。
一人の人間を育て上げるためには、少なく見積もって20年はかかる。経済的負担も大きく、大学まで面倒を見ると数千万円もの支出になるらしい。その支出に対して、金銭的リターンはあまり計算できない。というか「計算することが許されない」。
なんて考えている時点で、私は子育てに適していないのだろう。「ふつう」の人はそもそも、子育てのコスパ計算が許されるかどうかすら、考えないと思うから。その手前で、子を生み育てることの素晴らしさを直感できるのが「当たり前」...... なのだろうか?
それって、LGBTの人たちを「生産性がない」と表現した某国会議員の価値観と地続きな気がする。あれが自分の中にも潜んでいると思うと、罪悪感と似た感情に襲われてムカムカする。
「子育てはコストパフォーマンスじゃ測れませんよ」と、言い放った担当男性がうらめしい。というか、その真っ直ぐさが羨ましい。私は子育てがしたいというより、子育てをいいものだと思いながら子育てする感覚を味わってみたいのだ。でも、非合理な苦労はしたくない。そんな自分がつくづくイヤになる。
2時間で1万円の謝礼を受け取ったが、悩みのタネはむしろ増えた。あれは「コスパの悪い仕事」だったのだろうか――。(北条かや)