大学まで面倒みると数千万!
ああ、そうか! と納得した。確かに子育ては、コストパフォーマンスの対極にある。出産からして母体にはリスクが伴うし、幼子を育てている友人を見ると、自分には想像もつかないほどの苦労をしている。
命を預かる大変な営みにもかかわらず、周りからは「母親だからやって当たり前」と感謝もされず、仕事と家庭の両立に苦しんでいるのに「子供の笑顔を見たら、やっぱり子供がいてよかったと実感する」など満足そうである。
私にはそれが、理解できないのかもしれない。そして、理解できないことがコンプレックスだ。一応、健康なカラダがあって、パートナーがおり、経済力もないとはいえないのに、子育ては「コスパが悪い」ように見えるから子供をつくろうとしない。そんな自分に気が付いてしまった(まったく、罪作りな取材である)。
一人の人間を育て上げるためには、少なく見積もって20年はかかる。経済的負担も大きく、大学まで面倒を見ると数千万円もの支出になるらしい。その支出に対して、金銭的リターンはあまり計算できない。というか「計算することが許されない」。
なんて考えている時点で、私は子育てに適していないのだろう。「ふつう」の人はそもそも、子育てのコスパ計算が許されるかどうかすら、考えないと思うから。その手前で、子を生み育てることの素晴らしさを直感できるのが「当たり前」...... なのだろうか?
それって、LGBTの人たちを「生産性がない」と表現した某国会議員の価値観と地続きな気がする。あれが自分の中にも潜んでいると思うと、罪悪感と似た感情に襲われてムカムカする。
「子育てはコストパフォーマンスじゃ測れませんよ」と、言い放った担当男性がうらめしい。というか、その真っ直ぐさが羨ましい。私は子育てがしたいというより、子育てをいいものだと思いながら子育てする感覚を味わってみたいのだ。でも、非合理な苦労はしたくない。そんな自分がつくづくイヤになる。
2時間で1万円の謝礼を受け取ったが、悩みのタネはむしろ増えた。あれは「コスパの悪い仕事」だったのだろうか――。(北条かや)