月刊「文芸春秋」の巻頭に「同級生交歓」と題し、モノクロの写真と短い記事からなるページがある。普通は小学校、中学校や高校で同級あるいは同期だった人たちが集まって、懐旧談にふけり、うち1人が記事にするといった趣向である。
毎回、3校の同級生が登場する。1校あたり2人から多いときは5人、あるいはそれ以上になる。僕は月刊文芸春秋を開いたときには、いつもこの欄に目を通している。楽しみにしている。
連載60余年「文化」のにおい薄れた?
でも、近年は毎回のように、「違和感」にとらわれる。「同級生」と言えば、ここに登場した人以外にも数十人がいるだろう。「同期生」なら、数百人はいるかもしれない。その中から、登場人物はどんな基準で選ばれるのだろうか。
おおよその見当はつく。それは、月刊文芸春秋の編集部が「社会的に成功している」と認めた人たち、いわば「勝ち組」なのだろう。そして、編集部がめぼしをつけた政治家なり財界人・経済人なりに、本人の同級生、同期生から適当な人物を選んでくれるよう、頼むことも大いにあるのではないか。
では、自分たち数人だけが「同級生交歓」に出られる「勝ち組」であり、昔のほかの仲間はその資格のない「負け組」なのか。「多くの仲間を差し置いて、自分たちだけが出しゃばるのは申し訳ない」という気持ちにはならないのだろうか。当然、「負け組」に入れられた仲間からの批判もあるだろう。
ところで、この連載は1956年に始まり、2006年にはその50周年を記念して、「文春新書」がそれまでの代表的なものをまとめている。それらを読むと、さっき書いたような「違和感」にとらわれることはまずない。「自分たちだけが勝手に......」という苦情も出そうにない。何よりも「文化」のにおいがする。