「福島で働いている」という自己紹介すると、必ずといっていいほど言われる言葉があります。
「結局国っていろいろ隠してるんでしょ」
「それで、『本当のところ』はどうなの」
現場には、国が隠している「本当のこと」が存在するに違いない。信じがたいことかもしれませんが、このような感覚は、政府や行政の関係者が身近にいないような、一般的な人々のあいだには、広く蔓延している感覚なのです。
参考リンク:風評払しょくの落とし穴(3):公開という名の「隠蔽」
科学的事実と科学情報 科学用語では説明がつかないことがある
しかし、福島県内にかかわらず、事実を積極的に隠蔽している、というような方はいないのではないでしょうか。実際にいろいろな情報について行政関係者に質問をすれば、ほぼ必ず、
「それは〇〇に情報を公開していますよ」
という回答が速やかに返ってきます。
たしかに公的機関のホームページを丁寧に読めば、福島の放射線量や福島第一原発の現状につき、詳細な情報が示されています。しかし、このような回答は人々の信頼を回復させるよりは、むしろ苛立たせることのほうが多いように思います。それは、「知らないのはあなたの勉強不足」と責任を転嫁されたような気分になるからなのではないかと思います。 情報に対して、理解というフィルターを通す個人の責任は明らかに存在します。しかし一方で、その理解の責任を読者に丸投げするような、情報提供のあり方もまた、風評被害の責任の一端を担っているのではないでしょうか――。
2011年の原発事故当初にしばしば見られた誤解は、科学的な事実を述べれば科学情報を発信していることになる、というものではないでしょうか。
事実と情報は異なります。事実は基本的に記録を目的としますが、情報は伝えることが目的だからです。言い換えれば、専門家の左脳ではなく、情報は人々の心に届くものでなくてはいけないと思います。
私自身、福島で甲状腺がんの話をした時に、
「現在の甲状腺がんがスクリーニング効果だというのなら、現在100名以上もの子供が甲状腺がんと診断されていることをどう説明するのだ」
という質問を何度か受けたことがあります。
初めのうちは、スクリーニング効果だから100名以上も見つかった、という説明をしているのに、なぜそれが伝わらないのだろう、と不思議に思いました。しかし、同じような質問を別々の場所で何度も受けるうちに、その原因が科学リテラシーという一言で片づけてはいけないものではないか、と考えるようになりました。
「100名以上」という数値を聞けば、人は反射的に「多い」と感じます。一方で、「スクリーニング効果」という用語にはそのような色がありません。そう考えれば、「100名以上」という衝撃的な数値を、「スクリーニング効果」という温度の低い科学用語で説明することは、現在苦しんでいる100人もの方に寄り添っていない、という印象を与え得るのではないでしょうか。
数値や事実は、たとえ同じことを示していたとしても、受け取る者にとって必ずしも等価の情報ではありません。衝撃を伴う数値はその衝撃のままに伝えなければ、情報としての力は弱くなります。自省も込めて言うならば、科学に慣れすぎた人間は、この数値のもたらす衝撃や情緒に対してしばしば鈍感になってしまいがちなのかもしれません。
公開という名の「隠蔽」
「福島ではまだ何万ベクレル(/kg)というキノコが生えているのに、なぜその線量は安全などと言えるのか」
そういう質問に対し、
「口に入らないものが何ベクレルでも健康に影響はないです」
「少量だったらレントゲンを1枚撮るより被ばく量は少ないです」
と答えるだけでは、科学情報の発信としては不十分なのではないでしょうか。
一生をその地で暮らす人々にとって、ふと目にとまる、震災前までは今日のおかずであったかもしれないキノコが「何万ベクレル」という何か大きな数値で汚染されている。それがどういう感覚なのか、私たちよそ者には完全に理解することはできないからです。
たしかに科学において客観性は重要です。しかし過度に主観性を排除した結果、人の素直な感覚とかみ合わない情報となっては、人に何かを伝えることはできません。
そういう意味で、科学とは異なり、「科学の情報」は客観性を偏重すべきではないのではないか。それが、私自身が福島で感じたことでした。
客観性の偏重による一番の弊害は、感覚を無視して事実だけを述べることで、なにかをごまかしている、と受け取られてしまうことです。
たとえば放射線の外部被ばくに用いられる「シーベルト」という単位を説明するために光の明るさである「ルクス」と比較することがあります。しかし、普通の人が
「この部屋は〇〇ルクスです」
と言われても、実際にその部屋が明るいのか暗いのかは分かりません。「明るさ」「暗さ」について誰かが説明しない限り、その情報は人によって明るく、人によって暗いと思える情報のままであり、それでは部屋の明るさを伝える情報にはなりません。同じことが放射線量にも言えると思います。
線量が「高い」「低い」というのは感覚です。多くの科学情報では、この感覚の用語を嫌い、「〇〇の線量と同じくらい」「××のリスクと同じくらい」という比較を行います。その上で高い、低いは個人で決めてもらう。たしかにそれが科学的に正しいやり方なのかもしれません。
しかし、多くの人はその高低を自分で決められないからこそ不安になるのではないでしょうか。その結果、検出された放射線量がどんなに低かったとしても、それを「多い」と感じ、不安になる方が増えてしまうのだと思います。
情報を公開しているにもかかわらず「隠されている」という感覚を人々に与えてしまう背景には、客観性、匿名性、無感情性といった、行政文書などに特有の性質が存在すると思います。
調理されない事実
行政の性質上、誤解を与える表現をしてはいけない、中立でなければならない、という問題は、避けることのできない部分もあるかもしれません。しかし、どんなに中立を保っても人を傷つけない発信はありません。
また、どんなに客観的な事実でも、理解できる部分だけを抽出して解釈する人がいる限り、「誤解」のない情報はありません。
そのように考えれば、たとえ公的な文書であっても、もし発信を目的にするのであれば、本当に全ての色を取り去った無味乾燥なデータとするべきなのでしょうか。少なくとも、「多い」「少ない」などの目安まで消し去った情報であるべきなのか。目的に応じて客観と主観の境界線を引き直すことは議論されるべきなのではないかと思います。
なぜなら、温度のない情報は、時に「伝える意思のない情報」と見られるからです。数式や理論だけを述べ、方向性がない情報だけを提供すること。それは、レシピを与えずに調理の難しい食材だけを提供することに似ています。その食材を煮るのか焼くのかも分からない人々に食材を与えても、それは食べ物を提供したことにはなりません。
同様に、専門性の高い情報だけを公開してその理解や解釈の責任を一般人に押し付けてしまうことは、情報を何も与えないことに等しいのではないでしょうか。溢れる情報の中で「隠されている」と感じる人が多い理由もここにあるのではないかと思っています。
科学情報は、それが専門的であればあるほど、専門家の解釈や考え、あるいは行動という「科学のレシピ」なしには伝わりません。その最低限のレシピすら与えずに、「客観的情報」だけを与えた結果、むしろ自分の意見で科学情報を調理する人々が増えているのではないか。福島の風評被害にはそういう背景も少なからずあるという印象を受けます。
「思想、価値観、方向性をメッセージとして伝えない限り、政府の信頼は回復しない」
先日行われた委員会で、ある科学ジャーナリストが発言されたことです。
前稿でも述べた通り、科学情報を切り貼りする責任自体は、切り貼りをした発信者にあります。しかしその情報を自前で調理せざるを得なかった責任の一端は、解釈の責任を一般人に丸投げする、思想のない科学的情報の氾濫にもあるのではないでしょうか。
冷徹な科学者とは、価値観を持たない科学者でも無思想な科学者でもありません。人の暮らしの感覚と数値データのバランスを取り、戦略的に人々に伝えることこそが、科学者や専門家が情報を発信する意味なのではないか。福島で科学情報を理解しようと苦戦された方々の足跡を見るにつけ、そう思います。
(越智小枝)
地球温暖化対策への羅針盤となり、人と自然の調和が取れた環境社会づくりに貢献することを目指す。理事長は、小谷勝彦氏。