調理されない事実
行政の性質上、誤解を与える表現をしてはいけない、中立でなければならない、という問題は、避けることのできない部分もあるかもしれません。しかし、どんなに中立を保っても人を傷つけない発信はありません。
また、どんなに客観的な事実でも、理解できる部分だけを抽出して解釈する人がいる限り、「誤解」のない情報はありません。
そのように考えれば、たとえ公的な文書であっても、もし発信を目的にするのであれば、本当に全ての色を取り去った無味乾燥なデータとするべきなのでしょうか。少なくとも、「多い」「少ない」などの目安まで消し去った情報であるべきなのか。目的に応じて客観と主観の境界線を引き直すことは議論されるべきなのではないかと思います。
なぜなら、温度のない情報は、時に「伝える意思のない情報」と見られるからです。数式や理論だけを述べ、方向性がない情報だけを提供すること。それは、レシピを与えずに調理の難しい食材だけを提供することに似ています。その食材を煮るのか焼くのかも分からない人々に食材を与えても、それは食べ物を提供したことにはなりません。
同様に、専門性の高い情報だけを公開してその理解や解釈の責任を一般人に押し付けてしまうことは、情報を何も与えないことに等しいのではないでしょうか。溢れる情報の中で「隠されている」と感じる人が多い理由もここにあるのではないかと思っています。
科学情報は、それが専門的であればあるほど、専門家の解釈や考え、あるいは行動という「科学のレシピ」なしには伝わりません。その最低限のレシピすら与えずに、「客観的情報」だけを与えた結果、むしろ自分の意見で科学情報を調理する人々が増えているのではないか。福島の風評被害にはそういう背景も少なからずあるという印象を受けます。
「思想、価値観、方向性をメッセージとして伝えない限り、政府の信頼は回復しない」
先日行われた委員会で、ある科学ジャーナリストが発言されたことです。
前稿でも述べた通り、科学情報を切り貼りする責任自体は、切り貼りをした発信者にあります。しかしその情報を自前で調理せざるを得なかった責任の一端は、解釈の責任を一般人に丸投げする、思想のない科学的情報の氾濫にもあるのではないでしょうか。
冷徹な科学者とは、価値観を持たない科学者でも無思想な科学者でもありません。人の暮らしの感覚と数値データのバランスを取り、戦略的に人々に伝えることこそが、科学者や専門家が情報を発信する意味なのではないか。福島で科学情報を理解しようと苦戦された方々の足跡を見るにつけ、そう思います。
(越智小枝)
地球温暖化対策への羅針盤となり、人と自然の調和が取れた環境社会づくりに貢献することを目指す。理事長は、小谷勝彦氏。