公開という名の「隠蔽」
「福島ではまだ何万ベクレル(/kg)というキノコが生えているのに、なぜその線量は安全などと言えるのか」
そういう質問に対し、
「口に入らないものが何ベクレルでも健康に影響はないです」
「少量だったらレントゲンを1枚撮るより被ばく量は少ないです」
と答えるだけでは、科学情報の発信としては不十分なのではないでしょうか。
一生をその地で暮らす人々にとって、ふと目にとまる、震災前までは今日のおかずであったかもしれないキノコが「何万ベクレル」という何か大きな数値で汚染されている。それがどういう感覚なのか、私たちよそ者には完全に理解することはできないからです。
たしかに科学において客観性は重要です。しかし過度に主観性を排除した結果、人の素直な感覚とかみ合わない情報となっては、人に何かを伝えることはできません。
そういう意味で、科学とは異なり、「科学の情報」は客観性を偏重すべきではないのではないか。それが、私自身が福島で感じたことでした。
客観性の偏重による一番の弊害は、感覚を無視して事実だけを述べることで、なにかをごまかしている、と受け取られてしまうことです。
たとえば放射線の外部被ばくに用いられる「シーベルト」という単位を説明するために光の明るさである「ルクス」と比較することがあります。しかし、普通の人が
「この部屋は〇〇ルクスです」
と言われても、実際にその部屋が明るいのか暗いのかは分かりません。「明るさ」「暗さ」について誰かが説明しない限り、その情報は人によって明るく、人によって暗いと思える情報のままであり、それでは部屋の明るさを伝える情報にはなりません。同じことが放射線量にも言えると思います。
線量が「高い」「低い」というのは感覚です。多くの科学情報では、この感覚の用語を嫌い、「〇〇の線量と同じくらい」「××のリスクと同じくらい」という比較を行います。その上で高い、低いは個人で決めてもらう。たしかにそれが科学的に正しいやり方なのかもしれません。
しかし、多くの人はその高低を自分で決められないからこそ不安になるのではないでしょうか。その結果、検出された放射線量がどんなに低かったとしても、それを「多い」と感じ、不安になる方が増えてしまうのだと思います。
情報を公開しているにもかかわらず「隠されている」という感覚を人々に与えてしまう背景には、客観性、匿名性、無感情性といった、行政文書などに特有の性質が存在すると思います。