「ある人からそういうメールをもらったが、これが多くの福島県民の率直な気持ちです。これについて意見をいただきたい」
先日行われた福島の風評についてのイベントの後、そんな匿名の質問が送られてきました。
国際環境経済研究所(IEEI)福島レポート 風評払拭の落とし穴(2)理解の責任
匿名の投稿がさらに匿名の文章を引用する
そこには、
「無礼な部分も含まれていますが容赦ください」
という断り書きが添えられたうえで、長文の文章が引用されていました。そのメールの文章はさらに、
「私宛に届いたメールを転送させていただきます」
としたうえで
、「そもそも、福島第1原発事故により甚大な被害を受けた方々に対して幸せになるなどと言うこと自体がおかしいでしょう。」
「...... こんな状態・情勢の下で『しあわせになる』など、欺瞞的態度も甚だしいと言わざるを得ません。」
などといった、確かに無礼と取られかねない文言が引用されていました。
この投稿が特に心に引っかかった一つの理由は、質問が二重の「引用」という形で行われていたことです。匿名の投稿がさらに匿名の文章を引用する。それは何のためでしょうか。邪推かもしれませんが、その背景には、他人の文章を転用することによる害意の責任転嫁があるのでは、と思えてしまいます。
【著作権と文責】
情報の切り貼りが容易になった今、私たちは日常的に情報のコピペ(切り貼り)を行っています。著作権の観点からすれば、コピーされた情報の著作権はオリジナルの作者に帰属するのが一般的です。では、その引用された文章が人を傷つけた場合、その責任は誰のものでしょう。
先の例でいえば、たしかに「無礼な部分」を書いたのはメールの送り主かもしれません。しかし、それを肯定する形で引用した時点で、その文章が内包する「無礼」の責任主体は引用主に移行しているではないでしょうか。
著作権と文責は違います。たとえ文言を一切変更することなくても、自分の理解というフィルターを通過した情報はすでに自分自身である。私たちはその意識を常に持っている必要があります。
オリジナルとリツイートの違い
【リツイートの罪悪感】
たとえばTwitterやFacebookでは、他の人のツイートをワンクリックで「リツイート」「シェア」する行為が日常的に行われています。他人の意見をそのまま知り合いに転送できるリツイートやシェア。当然、そこに含まれる内容自体は、オリジナルの発信とまったく同じものになります。
しかし、オリジナルの情報とリツイートされた情報は、決して「同じ情報」ではありません。なぜなら、その2つのあいだには必ず、何をシェアするかを選択した人間が介在しているからです。
たとえば、
「越智小枝は御用学者」
というツイートを誰かがリツイートすれば、それはリツイートをしたほうが
「越智小枝は御用学者」
だと言っている、ということと同じです。
それでも、自分でつくった悪口を書き込むことに比べ、誰かの悪口をリツイートするほうが罪悪感ははるかに低いのが現実ではないでしょうか。福島の風評被害拡散の背後にもまた、このような漠然とした無責任感がある、と感じます。
福島の風評被害が拡散されるとき。私たちはそこにある悪意ではなく、むしろそこに悪意が乏しいことにこそ危機感を覚えるべきなのかもしれません。
【理解というハサミ】
情報を引用するもう一つの手法が、情報の一部を切り取る「コピペ」です。
たとえば、ある専門家が
「スクリーニングによって発見された甲状腺ガンは予測されていたよりも多かった。ただし、それがスクリーニング効果である可能性もある。」
と発言したとします。誰かがその発言の前半部分だけを切り取って、
「福島の甲状腺ガンが多いと専門家が認めた」
という情報を発信するといった事例は、しばしば目にします。
私もインタビューで、
「福島県産の野菜を避けてジャンクフードを食べる方が健康に悪い」
と言うつもりであるファストフード会社の名前を出してしまったことで、
「〇〇社を福島のスケープゴートにしている」
と書かれてしまったこともあります。
この7年の間に福島から去っていった専門家の方のなかには、このように歪んで伝えられる発信に嫌気がさした、という方も少なからず存在します。
静かに続く風評被害
では、オリジナル情報を切り貼りした情報は「間違った」情報なのでしょうか? おそらくそうではない、と私は思います。自分の言ったつもりのことと人が解釈したことは、異なるのが当然だからです。
そうではなく、切り取られた時点で、その情報がオリジナルの発信者の持ち物ではなくなった、というだけのことなのではないでしょうか。
情報をコピペする時、人は自分の意見をつくっている、という意識すらないかもしれません。しかし、情報の切り貼りは、あくまで誰かの意見を用いて「自分の意見」を補強する行為です。ある情報を「理解」「共感」というハサミで切り取った瞬間、その情報にまつわる社会責任もまた、ハサミの持ち手にコピペされている、ということは認識されるべきだと思います。
【理解の社会責任】
著名な方がガンで亡くなるたび、必ずと言っていいほど
「××は福島県産品を食べて応援したからガンになった」
という心ない情報がSNSで拡散していることはご存知でしょうか。災害から7年が経った今も、風評被害は静かに続いています。
「食べて応援」というニュースと、ガンというニュースを切り取って貼り付けるだけ。積極的な嘘をつくことすらなく、風評は簡単につくることができます。その情報は、さらに手軽なコピーやリツイートによって拡散してしまうのです。そして、どんなに情報が拡散しても、その情報が個人を傷つける力は薄まることはありません。
私たちは、クリック一つで知らない人をも傷つけることができる、操作容易な凶器を手にしています。それが凶器であることを皆が自覚し、情報を理解する主体としての責任感を持たない限り、悪意不在の風評被害はなくなることはない、と思います。
理解と共感には自己責任だけでなく社会的責任も伴う、ということ。それは日々大量の情報に触れるようになった私たちが、新たに共有すべき社会通念なのではないでしょうか。
(越智小枝)
地球温暖化対策への羅針盤となり、人と自然の調和が取れた環境社会づくりに貢献することを目指す。理事長は、小谷勝彦氏。