「今でも福島のイベントなんてやってるところなんてあるの?」
つい先日、東京の知り合いにそう聞かれました。3.11が近づき、東北地方では復興イベントが目白押しである最中の質問です。自分で気づかずにいた風化という現実を、目の前に突き付けられたような気がしました。
メディアは「日常」を発信できるか
復興庁ではようやく2017年末に「風評払拭・リスクコミュニケーション強化戦略」が打ち出され、国はようやく本腰を入れて風評被害の払拭にとりかかろうとしています。しかし震災から7年もたったこの時期に風評払拭を始めることは、容易ではありません。既に固定化しつつある風評と戦うためには、風化の速度を上回るだけの強力な発信を行うことが必要となるでしょう。
実際、この「強化戦略」の中でも、「継続的・効果的な発信」「草の根・口コミによる発信」など、様々な形での発信の必要性が繰り返し述べられています。
「日常を伝えたい」
「普通を伝えたい」
「美味しいを伝えたい」
それは、風評に悩む方々にとって、ごく自然な感情だと思います。しかし一方で、私は「とにかく発信すればよい」という「発信ブーム」には、多少の危機感も覚えています。なぜなら、どんなに善意で行ったとしても人を傷つけない発信は存在しないからです。
発信とは一つの「力」です。力のある所には必ず反動があります。その反動を理解せず発信力だけを強化すれば、同じだけその「副作用」は大きくなってしまうでしょう。私たちは、今改めて、福島に見る発信の暴力性について思い出さなくてはいけないのではないでしょうか。
使い古された言葉ですが、
「犬が人を噛んでもニュースにならないが、人が犬を噛めばニュースになる」
という言葉があります。
「人が犬を噛んだ」という特殊な事件を報道するのがニュースの基本であるにもかかわらず、人々はなぜかマスメディアが報道することが「一般的な真実」だと思いがちです。
「賠償金をもらった人がみんな放蕩三昧をしているんでしょ」
「東京では『なんで自分たちが福島の賠償金を払わなくてはいけないんだ』って言って電気代を払いたがらない人が多いんでしょ」
私自身、そう聞かれたことがあります。これらのイメージは、報道により強く植え付けられたイメージが一般的なイメージとして一人歩きしてしまったよい例だと思います。
次々とつくり出されたヒーローとヒロイン
もちろん災害時には、なるべく多くの方の声を拾おうと努力された記者さんもいます。しかし一方で、
「避難所で車座になって笑いながら話していたら、テレビカメラが避けて行った」
そんな話も耳にします。
報道を見る、聴くのは聴衆であり、聴衆は絵を好みます。そういう側面がなくても、一記者が報道できるものは、個人の見聞きしたものの範疇を超ません。そのような報道が「一般的な」光景であるかどうかは保障されないのです。
それでも、短期間に少数の人間だけが対象になり、報道されるような事件であれば、大きな問題は起きなかったのではないかと思います。しかし、災害時・復興時の情報発信では、毎年何百人という方が次々とメディアに登場し「ヒーロー」「ヒロイン」に仕立て上げられてきました。
そしてそれは、報道された「たくさんの声」と、報道されない「それ以上にたくさんの声」との間に、不要な軋轢を生む結果となったのです。
「軋轢、軋轢って報道されるけど、多くの住民と避難者は仲良く暮らしているんです。まるで私たちが心の狭い集団と言われているみたいで不快です」
震災からしばらく経ち、避難者が医療機関に押しかけて住民との軋轢を呼んでいる、などと報道された後のこと。いわき市に住む方からそう言われたことがあります。
このような副作用を持つ媒体はマスメディアで発信されたニュースに限りません。媒体の力が強いほど、その発信が「多数派」であり「正しいこと」であるように聞こえてしまう。その結果、それに当てはまらない人々を傷つけることがある、という認識を、発信者は常に持ち続けなくてはいけないと思います。
「発信されない」ことが生む被災地の分断
災害時の報道は、「コンクールで1等賞を取った」などという報道とは質が違います。報道されるのが地元で頑張っている人たち、というのは事実かもしれません。しかし、報道されなくても、もっとすごいことをやっている人たちは現場にごまんといて、地元では皆それを知っています。もちろん、報道される人が、万人にとっての「良い人」である訳もありません。
ところが、メディアの影響力の強さから、「報道される人・発信している人の方が偉い」というような誤った認識を持つ人も少なからずいます。この誤認により、発信力を持った人に対する嫉妬が生まれたり、特定の人間ばかりが報道されることで
「なぜあっちが報道されてこっちが報道されないのだ」
という、負の感情が引き起こされたりすることも、しばしば生じてしまうのです。
「支援に来ている医師がいつまでもメディアに取り上げられるから、震災前から地元を支援してきた医師のモチベーションが下がっているんです」
地元の医師の方にそう言われ、反省した経験が私にもあります。
このような分断はよそ者と地元の間に起こるばかりではありません。
「僕は『被災者』です。でも、毎日ハッピーに暮らしています」
あるイベントでそう発信した若者の言葉は、多くの参加者の胸を打ちました。しかし、まったく同じイベントのステージの下で、
「今でも何万人もが県外避難している中で、福島が楽しい、明るいなんていうことを無責任に言って欲しくない」
と吐露する方がいたりもします。
どちらの発言も間違ってもないし、悪くもないのに、そこには発信された、されなかったという明確な境界線が引かれてしまう。震災から7年経って人々の意見に多様性が生まれている今、発信力が強まるほど、「発信されない」ことにより傷つく人が増え、地域に不要な分断も生まれるのではないか、と懸念しています。
メディア中毒に陥る支援者
また、よく知られていながら、メディアではあまり語られないことに、メディアに報道されること対する一種の中毒性があります。
「発信する・報道される」ことによって人に注目される、意見を聞いてもらう、感想を言われる。その経験は、多くの場合は心地よいものです。大きな災害の後には、それ自体が支援活動のモチベーションになることも多いでしょう。また、自分の言葉を広く世間に発信できたことで心が救われた被災地の方も大勢いたと思います。
しかし今の福島では、この中毒性によって人々が誤った「支援者根性」に囚われてしまっている場面も少なからず見られます。
つい最近、浜通りのある施設が「復興ボランティアに伺いたい」という申し出を受けたそうです。ところが、
「今回の活動の新聞テレビなどメディアの掲載はご遠慮させて下さい」
とお願いしたところ、途端にその団体は
「メディア露出がないなら今回のボランティアは辞退する」
と、予定を中止してしまったといいます。
メディアに発信できないボランティアは無意味というのであれば、これは本末転倒の支援と言えるでしょう。
また、地域の暴露ネタをメディアに流したり、「復興を遅らせているのは地域の古い文化だ」など、震災前から地域を支えてきた方々を批判し始める人もいます。
もちろん、都市とは異なる文化をみて、地域社会の制度に改善の余地を見出す人もあるでしょう。しかし、その批判を全国に発信する必要はありません。その人を訪ねて話し合えばいいだけの話だからです。それを敢えて発信してしまう背景には、気づかない間に囚われしまっているメディアへの中毒性が存在するのではないか――。発信者は常にこの反省を繰り返す必要があります。
自戒を込めて
元支援者で、かつ福島にかかわり発信を続けている私もまた、日々の発信により時に人を傷つけ、時に「発信中毒」となっているよそ者の一人です。だからこそ、風評払拭という大義名分によって発信の暴力性が肯定されてはいけない、と強く思います。
それでもなお、今の福島を発信することは世界と知恵を共有するために大切だ、という持論は変わりません。
「人を殺す刀、かえってすなわち人を活かす剣なり」
と唱えた昔の剣術家の域には達しないかもしれません。それでも、発信の有害性を認識したうえで、発信をすべきかどうかを常に選択していく。福島と共に、発信の文化もまたそのような形に成熟していけばいいな、と思っています。(越智小枝)
国際環境経済研究所(IEEI)福島レポート 風評払拭の落とし穴:発信の持つ暴力性について
地球温暖化対策への羅針盤となり、人と自然の調和が取れた環境社会づくりに貢献することを目指す。理事長は、小谷勝彦氏。