【IEEIだより】福島レポート メディアの功罪「風評払拭」の落とし穴、発信力が持つ暴力性(越智小枝)

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「発信されない」ことが生む被災地の分断

   災害時の報道は、「コンクールで1等賞を取った」などという報道とは質が違います。報道されるのが地元で頑張っている人たち、というのは事実かもしれません。しかし、報道されなくても、もっとすごいことをやっている人たちは現場にごまんといて、地元では皆それを知っています。もちろん、報道される人が、万人にとっての「良い人」である訳もありません。

   ところが、メディアの影響力の強さから、「報道される人・発信している人の方が偉い」というような誤った認識を持つ人も少なからずいます。この誤認により、発信力を持った人に対する嫉妬が生まれたり、特定の人間ばかりが報道されることで

   「なぜあっちが報道されてこっちが報道されないのだ」

という、負の感情が引き起こされたりすることも、しばしば生じてしまうのです。

   「支援に来ている医師がいつまでもメディアに取り上げられるから、震災前から地元を支援してきた医師のモチベーションが下がっているんです」
地元の医師の方にそう言われ、反省した経験が私にもあります。

   このような分断はよそ者と地元の間に起こるばかりではありません。

   「僕は『被災者』です。でも、毎日ハッピーに暮らしています」

   あるイベントでそう発信した若者の言葉は、多くの参加者の胸を打ちました。しかし、まったく同じイベントのステージの下で、
「今でも何万人もが県外避難している中で、福島が楽しい、明るいなんていうことを無責任に言って欲しくない」
と吐露する方がいたりもします。

   どちらの発言も間違ってもないし、悪くもないのに、そこには発信された、されなかったという明確な境界線が引かれてしまう。震災から7年経って人々の意見に多様性が生まれている今、発信力が強まるほど、「発信されない」ことにより傷つく人が増え、地域に不要な分断も生まれるのではないか、と懸念しています。

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