もうすぐ、ヒモさんの誕生日だ。一応、聞いておくのがマナーかなと思い、「何か欲しいものある?」と聞いてみたが、彼は本当に物欲がないので、例のごとく「プレゼントはいらない」という。
こういうときは、ヘンにサプライズを仕掛けるのではなく、「現金」をあげるのがいちばん正しいと私は考えている。
サプライズは感動の押し売りでしかない
私は念のため、ヒモさんに確認した。
「プレゼント、本当に何もいらないの? モノでなくても、食事へ行くとか、なんでもいいよ。タバコとかお酒みたいな嗜好品でもいいし」
「う~ん、本当にいらない。去年は働いてなかったけど、今年は仕事してるから、必要なものは自分で買えるし......」と、ヒモさん。
彼の気持ちはよくわかる。私も昨年、自分の誕生日に何も欲しいものがないので、プレゼントをしたがるヒモさんを黙らせるのに閉口した。結果的に、「来年はなにもプレゼントを贈らない」と約束してもらい、ヒモさんが好きだという香水をもらったのだが。
「そうか、それなら今年も現金をあげることにするね」と、私。昨年は、ヒモさんが働いていなかったのでとりあえず現金2万円をプレゼントしたのだが、今年もそれがよさそうだ。
大して欲しいものがないと言っている相手に、誕生日だからといって無理やり、高価な物やサービスを与えるのは間違っていると私は思う。「いらない」というのにプレゼントを押し付けるのは、こちらの自己満足でしかない。サプライズなど、もってのほかだ。感動の押し売りはぜひとも避けたいところである。
ただ、年に一度くらい、パートナーに感謝を表す日があってもいいとは思っている。そこで妥協案として、何にでも使える現金は、文字どおりとても「使い勝手」がよいのだ。
現金こそ、究極の「モノ」である
「現金をプレゼントするなんて味気ないし、ロマンチックじゃないし」というご意見もあると思う。が、ちょっと考えてみてほしい。服やカバン、アクセサリーなどのモノと違って、現金はどんなモノとでも交換できる。この世の中で、もっとも多くのモノと交換できる無限の可能性を秘めた「モノ」が、現金なのである。
現金こそ、究極の「モノ」といえよう。屁理屈だろうか。
そうだ! かの有名な経済学者、マルクスも「貨幣の物神性」として語っていたではないか。ただの紙切れや銅の塊でしかない貨幣が、人間によって「すべてのモノと交換できる」とされたがゆえに、紙切れ自体の価値を超えて、全能の神のごとく崇拝されるのが資本主義社会だ。
そこで生きる我々ならば、愛する人に、最も「交換価値」の高い貨幣をプレゼントするのは別におかしいことではない。すべてのモノと交換可能という、無限の可能性を秘めたプレゼント。なんてロマンチックなんだろう。
というわけで今年も、ヒモさんの誕生日には現金をあげることにした。31歳、おめでとう、ヒモさん。(北条かや)