前回、小学3年の春に新築したわが家について書いたが、たしかにわが家は大きかった。庭も広いので、転校先の小学校でできた友人たちが、次々と遊びに来たものである。
しかし、家が広いというだけでは、女子グループにおける求心力を高めることはできなかった。私はそのうち、広いだけが取り柄のわが家を、持て余すことになる。
「私の家は、すごいのだ」
私は有頂天になっていた。「かやちゃんちって、広いね~」と言われ、遊びに来た友人たちとリビングで鬼ごっこをしたり、庭で泥遊びに興じたり。必要とあらば、父が「危ないから入るな」と言っていた地下室にまで案内し、友人に「内緒だよ」と言って秘密を共有した。
その様子を日記に書いて教師に提出し、教師にまで「広い家で、みんなと遊べてよかったね」とコメントをもらい、さらに図に乗った。
私の家はすごいのだ。完全に、調子に乗っていたと思う。
ところが、驕る平家は久しからず。私は徐々に求心力を失っていった。小学3年の秋に、「ローラーブレード」という商品名のスケートがブームになったときのことだ。「ローラーブレード」というのは、縦一列のローラーがついたインラインスケートで、たしか1995年頃は全国的に、けっこうなブームだったと思う。
1足1万円以上はする高価なもので、「たまごっち」よろしく、例によって厳しいうちの親が買ってくれるはずもない。そのローラーブレードを持っている友人が何名かいたので、私の家の前にある私有地の道路で、滑って遊ぼうということになった。スケートは買ってもらえないが、友人をうちに集めて、みんなで遊べばいいとの目論見だ。
それが甘かった。友人にスケート靴を借りて滑ったものの、私は運動音痴なので全然ダメ。すぐ転んでしまうし、怖くて一歩も前に進めなかった。そうしてオロオロしているうち、友人たちは「こいつと遊んでもおもしろくない」と判断したのか、徐々に帰りはじめ、その後は一切、うちでスケート遊びが開かれることはなかったのである。
聞けば、ローラーブレードの持ち主である友人の家から近くの公園で、運動能力に優れた者同士が集まって遊ぶことにしたという。
私は完全に蚊帳の外であった。
流行に乗り遅れ、DDRのステップが踏めない!
この頃から、私が苦手なおもちゃばかりが流行するようになる。小学校の高学年になると、プレイステーションのゲーム「ダンスダンスレボリューション」(DDR、画面の指示に合わせてステップを踏み、正確さなどのスコアを競うゲーム)が大流行したが、私の家は厳しくてゲーム機を一切買ってもらえなかった。
そのため、ゲーム機のある友人宅に人が集まるようになり、私の家で遊ぶ回数はどんどん減っていった。
ゲーム機、そう「プレステ」さえあれば、狭かろうが古かろうが、その友人の家はクラスメイトでいっぱいになるのである。まさに「プレイ」する「ステーション」たりうるのである。が、私の家にはゲーム機がなかった。広いだけでなんの遊具もないわが家は、プレステの流行とともに無価値になったのである。
ゲーム機もマンガ本もなく、親が厳しくてテレビのひとつも見せてもらえないわが家が、遊び場としての求心力を失うのは当然だった。寂しかったが、悠長なことを言っているヒマはない。私もまた、流行についていこうと、必死で「プレステ」のある友人宅へ通った。
苦手なダンスダンスレボリューションをマスターしようと、必死になったのである。が、もちろん運動音痴な私にダンスのゲームなど踊りこなせるはずもなく、下手なステップを披露して笑い者になるだけであった。
今でも私は、「家なんて狭くてもいいから、ゲーム機のひとつでも買ってほしかった」と、当時の悔しい思いを回顧しているのだ。(北条かや)