先週(2017年6月17日付)の当コラムで、「高級ホテルでケチくさい振る舞いをする両親」について書いたところ、さまざまな反応をいただいた。
「確かに北条さんの育った家庭は、筋金入りのケチっぷりだ」とか「あのくらいは普通でしょう」など、いろいろな声をかけてもらったが、我が家の「ケチケチエピソード」はあれで終わりではない。「ケチな家庭で育つとこうなる」という一例を、ぜひ見ていただきたいと思う。
「あの子の家庭はモノで溢れているからバカなのだ」
2017年6月3日付の、このコラムで父が「たまごっち」を絶対に買ってくれなかった思い出について書いたが、私は流行のおもちゃやゲーム類、「なかよし」「りぼん」などのマンガ本など、「子供がほしがりそうなもの」を買ってもらったことが一度もない。
そう、うちの父は昔からケチだったのだ。
洋服もほとんど買ってもらえなかった。夏休みと冬休みに、近所のイオンで1枚か2枚、買ってもらえるだけで、おしゃれな友人たちがこぞって買うようなブランドものは一切ダメ。経済的に余裕がないわけではなかったはずだが、とにかく一度、父が「これは娘(私)に必要ない」と言ったらもう、たまごっち、MDウォークマン、マルキューブランドの服、さらには当時、99%の高校生が持っていた携帯電話であろうと、その決定が覆ることはなかった。
私は不満であった。「たまごっちがあれば、あの子と仲良くなれる」とか、「携帯電話があればメアド交換ができて、友人ができる」など、「物ベースのコミュニケーション」に頼っていた10代の私は、我が家の厳しい家庭環境を何度恨んだか分からない。
友人宅のように贅沢をさせてもらえないから、「あの子の家庭はモノで溢れているから、バカなのだ」と見下すようにさえなった。ろくでもない防衛反応だ。
ドケチ家庭の功罪
「そんな幼少期の環境を、今さら嘆いても仕方がない」という声もあるだろう。その通りだ。子供にむやみやたらとモノを買い与えない、我が家の教育方針には、よい面も(少しは)あったと思う。ひと言でいえば「渇望感が創造力を産んだ」ということだ。
親が漫画を買ってくれないから、「それなら自分で描こう」と、白いノートにひたすら漫画を描いた。テレビを見せてもらえないので、情報への渇望感が生まれ、「だったら自分がコンテンツを作ろう」と、脚本やら、新聞のようなニュースペーパーもどきを作るようになったのである。
どれも内容はお粗末であったが、暇つぶしにしては周りのウケがよかった。そのうち私は、「文章などで自分を表現する仕事がしたい」と思うようになり、今こうして、コラムやエッセイをしたためるのを生業としているのだ。幼少期に感じた「渇望感」のおかげで、一生の仕事が見つかったと思えば悪くない。
こんな話をつい最近、大企業のエンジニアとして働く知人にしてみたところ、「ああわかる。僕も小さい頃、親がゲームを買ってくれなかったから、自分でプログラミングをするようになって、今の仕事に結びついているんだよね」と言っていた。
なんと...... 彼は渇望感を育てた結果、今や大企業のエンジニア(部長)。一方の私は、細々と文筆業(自営)である。「理系少年の渇望感」は、明らかに「文系」の私のそれより、実になっているではないか。年収にしてウン倍の差...... まあいいか。
ともあれ、ここまで育ててくれた両親には、感謝しなければと思う次第です。(北条かや)