ドケチ家庭の功罪
「そんな幼少期の環境を、今さら嘆いても仕方がない」という声もあるだろう。その通りだ。子供にむやみやたらとモノを買い与えない、我が家の教育方針には、よい面も(少しは)あったと思う。ひと言でいえば「渇望感が創造力を産んだ」ということだ。
親が漫画を買ってくれないから、「それなら自分で描こう」と、白いノートにひたすら漫画を描いた。テレビを見せてもらえないので、情報への渇望感が生まれ、「だったら自分がコンテンツを作ろう」と、脚本やら、新聞のようなニュースペーパーもどきを作るようになったのである。
どれも内容はお粗末であったが、暇つぶしにしては周りのウケがよかった。そのうち私は、「文章などで自分を表現する仕事がしたい」と思うようになり、今こうして、コラムやエッセイをしたためるのを生業としているのだ。幼少期に感じた「渇望感」のおかげで、一生の仕事が見つかったと思えば悪くない。
こんな話をつい最近、大企業のエンジニアとして働く知人にしてみたところ、「ああわかる。僕も小さい頃、親がゲームを買ってくれなかったから、自分でプログラミングをするようになって、今の仕事に結びついているんだよね」と言っていた。
なんと...... 彼は渇望感を育てた結果、今や大企業のエンジニア(部長)。一方の私は、細々と文筆業(自営)である。「理系少年の渇望感」は、明らかに「文系」の私のそれより、実になっているではないか。年収にしてウン倍の差...... まあいいか。
ともあれ、ここまで育ててくれた両親には、感謝しなければと思う次第です。(北条かや)