数年前まで中国の大学や塾で日本語を教えていたが、その授業中、「日本ではお客様は神様と言ってね、スーパーマーケットなんかでは...... 」と、僕はよく自慢げに話していた。
日本のスーパーを褒め、一方で、中国のスーパーのサービスをこきおろしていたのである。
中国でスーパー店員は「謝謝」とさえ言わない
たとえば、中国のスーパーでは勘定のとき「謝謝」(ありがとう)とさえ言わない。おつりは投げて寄こす。そんなところが目立った。
「何々はどこにありますか」と店員に聞くと、おおむね「没有」(ありません)あるいは「不知道」(知りません)のひとこと。自分で探すと、すぐ近くにあったりする。
同じことを、僕が帰国時によく利用するスーパーで尋ねれば、店員は仕事の手を休め、その商品があるところまで連れて行ってくれる。レジにいる店員の丁寧な言葉は途切れることがない。「いらっしゃいませ」「ありがとうございます」「〇〇円、お預かりいたします」「△△円、お返しいたします。お確かめください」「レジ袋はお入り用ですか」「また、お越しくださいませ」。
お客はおおむね無言である。「カネを払ってるんだ。愛想を言う必要はない」。そんな雰囲気が漂っている。買い手は売り手よりも偉いのだから当然である。しかし、僕はやがて自分の不明を恥じることになった。
同じ系列のスーパーで、店員が過労から亡くなったり、あるいは自殺したりして、新聞種になっていたのだ。過労死や自殺は客への手厚いサービスとどこかでつながっているはずである。サービス残業が多かったということも分かった。
「自分は神様だ!」というおごり
電通でも入社1年目の女性社員が過労から自殺した。ここもお客様は神様で、(もちろん、もうけ第一だろうけど)顧客のためなら休日出勤、徹夜もいとわず納期を守ろうとする。社員は睡眠時間を削るしかない。そこに問題があったと、弁護士に指摘されている。
「お客様は神様です」は、歌手の三波春夫(1923~2001年)の言葉である。ただ、彼にとっての「お客様」とは彼の歌を聴く「聴衆」のことであり、商店や飲食店などのお客のことではないし、営業先の顧客でもなかった。
それなのに、たとえば買い物客が「カネを払っているんだから、自分は神様だ。自分の言うことを聞け」というふうに解釈されるのは心外だったらしい。彼のマネジャーでもあった娘さんが「本人の真意」をネットで発表している。
しかし、この言葉は彼の「真意」とは離れて、独り歩きしてきた。違った意味合いを持たされてしまったし、僕もそれをもっともだと思ってきた。
近年、乗客による駅員など鉄道係員への暴力行為が目立っている。切符を買い間違えた、終電車に乗り損ねた、まさにささいなことがきっかけで、駅員などを殴ったり、蹴ったり、突き飛ばしたりする。
イライラしたせいだろうが、その気持ちの底には買い手である自分のほうが売り手の駅員なぞよりは偉いんだ、つまり、自分は神様だというおごりが潜んでいるのではないだろうか。
売り手がお客を大切にするのは、決して悪いことではない。ただ、いまはそれが少し行き過ぎているのではないか。やや難しく言えば、買い手も売り手も基本的人権を尊重するべきである。砕いて言えば「買い手も売り手もみんな同じ人間」ということだろう。
「お客様は神様」、そんな考え方はいらないのである。(岩城元)
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