かりそめの「自分」を顧みず......
「自分でお金を稼いで、自分のためにも人のためにも遣う。なんて楽しいんだろう。なんて気持ちいいんだろう。お金をパーッと遣うことの清清しさは誰にでも覚えがあるはず」(「Marisol」2017年5月号35ページ)
そりゃあそうだ。普段はケチケチしている私も、自分で稼いだお金を美容に何十万円とつぎ込むときの、あの「清清しさ」はやってみるまで分からなかった。
そうそう私も、私も...... と、共感を得るための一文なのであろうが、ハタと気づく。
私たちは日々のストレスを、ちょっと分不相応な高いモノやコトに散在して「清清しい」気持ちになることで、「プチ・林真理子」になっているのではないか。
その消費行動は彼女のエッセイでもって正当化され、なるほどお金を遣うって楽しい、バンザイ、明日からまた頑張ろう...... と、林真理子でない私(たち)は思う。私たちは決して、林真理子にはなれないのに。
彼女は今、夫と穏やかに過ごす日常を「充実した人生というのはこういう小さな幸せを積み重ねたものだ」と語る。なるほどと思うが、多くの人は林真理子の側には行けないまま、何も考えることなく消費させられているだけかもしれない。
人生の終盤になって自分がしてきた消費に意味づけをすることはできるが、彼女のエッセイはそこまでの思索を要求しないから読みやすいのだ。
消費社会を「プチ・林真理子」気分で生きることは、マッチ売りの少女よろしくショーウィンドウがみせるかりそめの「ちょっと上質な自分」に耽溺して、模倣者に安住する第一歩ではないか。
私は自分が、そうなるかもしれないと危機感を抱いている。簡単なほうへ流れるのはごめんだ。わが消費にいちいち意味を見出し、ケチをつけながら生きていきたい。そうして彼女のエッセイを読み終えると、おそろしく鼓舞されていることに気がついた。やはり林真理子はスゴイ。(北条かや)