僕はまだ生きているけど、「釋宗道」という「戒名」をすでに持っている。
わが家は浄土真宗なので、正しくは戒名ではなく法名と呼ぶのだが、生きているうちからこれがあると、死んだ時に慌てなくてもいいからだ。
家族に不愉快な思いをさせたくない
「戒名」は、仏門に入った人に与えられる名前をいう。僕は10年ほど前、京都の西本願寺で仏弟子になる帰敬式(ききょうしき)に出てつけてもらった。寺に払ったおカネは1万円。今も代金は同じだそうだ。
とはいえ、僕が死んだ時、この法名をぜひ使ってほしいとまでは思っていない。法名なしの無宗教の葬式でもいい。ただ、僕の死後、家族が法名料に何十万円も使ってほしくはない。金額をめぐる僧侶とのやりとりで家族に不愉快な思いもさせたくない。そこで、生きているうちに、安くつけておいたのである。
四半世紀前、大阪に住んでいた僕の父親が死んだ。駆けつけると、喪主である僕の前に僧侶が二人、現れた。一人は父親の故郷である和歌山の寺から飛んで来た。もう一人は地元の寺の僧侶である。それぞれが言った。
「こちらの家は先祖代々、和歌山の私どもの寺の檀家です。法名は私がつけます。西本願寺から院号ももらってきています」
「いえ、こちらが大阪に出てこられてからは、私どもの寺の檀家になられました。法名は私がつけたいです」
二人は命名権? を譲らない。ちなみに、院号というのは、法名の上につき、これがあると、さらにカネがかかる。先走ったことをされて不愉快だったが、仕方がない。
僕は二人に提案した。「じゃあ、上半分の院号は和歌山、下半分の法名は大阪のお寺がつけて下さい。予算はこれこれですから、折半して払います」。二人の僧侶は即座にOKした。向こうも落としどころを考えていたらしい。