わが家の墓は京都の大谷本廟にある。浄土真宗本願寺派(西本願寺)の宗祖親鸞の墓所で、通称「西大谷」と呼ばれている。東山の麓で、近くに清水寺があり、環境は抜群である。「墓は西大谷に」と言えば、聞こえはいい。だけど、中身はたいしたものではない。
懐かしむ気持ちが湧いてこない
写真はその墓参りの様子である。墓は山の斜面を地下7階くらいまで掘り下げたビルの中にある。長屋式あるいはアパート式といった感じで、鍵を使って上半分の扉を開けると、中は仏壇のようになっている。下半分には骨つぼが入っている。
わが家の墓はもともと和歌山県の山中にあったのだが、母が「死んでから、あんな寂しい所に行きたくない」と、京都に移してしまった。
この長屋式の墓は維持するのに手間が掛からない。それが利点と言えば利点である。ただ、別の見方をすると、コインロッカーに預けてある骨つぼに向かって手を合わせている感じがしないでもない。両親や祖父母には申し訳ないけど、亡き人を懐かしむような気持ちが、いまひとつ湧いてこない。
僕が死んだあと、子供や孫たちがやってきても、同じように感じるのではないか。かと言って、普通の墓だと墓石を洗ったり、雑草を抜いたり、手間が掛かる。
「子孫に迷惑をかけたくない」
そうだ、墓なんてものは、入ってしまった自分はいいけど、あとの面倒を見させられる子供たち、孫たちには迷惑な存在ではないのか。さらにそのあとの子孫たちは、両親や祖父母に加えて、会ったこともない先祖たちの相手までしなければならない。
中国人の知人の両親は、先祖代々の墓を壊してしまった。そして、墓なしでどうしたかというと、両親のうち先に亡くなった父親の遺骨は自宅に置いておいた。やがて母親も亡くなったので、ふたりの遺骨を一緒にして砕き、海に撒いてしまった。墓を壊した理由は「子孫に迷惑をかけたくないから」だった。「墓を残すのは犯罪だ」とまで、父親は言っていたそうだ。
最近、「引き取り手のない遺骨」が増え、各自治体はその扱いに困っている。ひと口に「遺骨」と言っても、それぞれが骨つぼに入っている。結構かさばる。引き取り手がいない問題をどう考えるかは別として、自治体が困っているのは、遺骨は骨つぼに入れて墓に収めるものという固定観念があるからではないか。その点、墓なんかいらないとなれば、砕いて海に撒いたり、遺骨の処理は楽になるはずだ。
それに、人によって家族によって、墓の大小には随分と差がある。墓のない人もいる。死んでまで不公平ではないか。結婚せず、子供を作らない人も増えている。誰が墓の面倒を見るのか。
また、都市化が進んだせいだろう、市街地の雑踏の中にある墓も多い。電車の線路そばの墓もある。やかましくて安らかには眠れない。共同の墓地くらいはあってもいいけど、いっそのこと、代々の墓なんてないほうが、生きている間も死んでからも、人生すっきりするのではないだろうか。(岩城元)