新聞の死亡記事を見ていると、次のようなやつによくお目にかかる。昔はあまりなかったように思う。近年の流行かも知れない。
「告別式は近親者で営んだ。後日、お別れの会を開く」
「通夜、葬儀は近親者で営み、後日にお別れの会を開く予定」
断る理由を見つけにくい
平たく言うと、以下のようなことだろうか――。
「通夜、葬儀、告別式は皆さんにご迷惑をかけないようにと、近親者だけでやってしまいました。でも、皆さんはそれだけではご不満だと思います。故人をしのびたいというお気持ちがあるでしょう。ついては、あらためて故人とのお別れの会を開きますので、ぜひ出席してください」
僕はこれが苦手である。通夜、葬儀、告別式。なんとしても駆けつけたい故人がいる一方で、まあ、あまり行きたくないなあ、それほど義理があるわけでもなし、という故人もいる。
そして、葬儀は普通、亡くなってから数日後に行われる。言うならば、突然の行事である。さぼりにくい予定と重なっていることもある。いささか不謹慎ではあるが、適当な理由をつけて葬儀に行かなくても、それほど罪の意識を感じないで済む。香典だけを誰かに託してもいい。
だが、お別れの会は、ご本人が亡くなってから何か月先とか、かなりあとに開かれる。しかも、出欠の返事を求めるはがき付きで案内が来る。どうしても出席したい故人なら別だが、当然あまり出たくない故人もいる。でも、お別れの会が何か月も先だと、例えば海外出張の予定でもあるといいのだが、そうでないと断る理由を見つけにくい。すぐには出欠の返事が出せず、ぐずぐずとはがきを手元に置いておいたり、ということにもなりかねない。
まさか「貸しがある」とも言えず
さて、積極的か消極的かは別として、6000円とか8000円、あるいは1万円の会費を払って、お別れの会に出席したとしょう。順番に故人をしのぶ言葉を述べさせられることもよくある。「故人にはマージャンの貸しがまだかなりある。踏み倒されてしまった。遺族が払ってくれ」なんてことは言えない。ひたすら、故人を褒めなくてはいけない。
一方、故人への褒め言葉ばかりを聞く家族のほうは、結構いい気持ちではないだろうか。しかも、お別れの会の進行役は家族以外の誰かがやってくれる。それだけではない。日取りの設定、会場探しから誰と誰に案内状を出すか、挨拶は誰と誰に頼むか、会費はいくらにするか――家族は適当に指示するだけで高みの見物でいられる。
「自分が死んだら、葬儀は家族葬で簡単にやり、後日、お別れの会をやってほしい」
と遺言する人もいると聞く。勝手なものである。
僕は近親者による家族葬には賛成である。でも、それを選択するなら、お別れの会なんてやってほしくない。家族葬だけで打ち切るべきだ。もし、家族葬のあとお別れの会までやってほしいと思うのなら、最初から通夜、葬儀、告別式を盛大にやるべきであろう。それが「筋」というものである。
家族葬とお別れの会のセット――こんな中途半端はお断りである。(岩城元)