まさか「貸しがある」とも言えず
さて、積極的か消極的かは別として、6000円とか8000円、あるいは1万円の会費を払って、お別れの会に出席したとしょう。順番に故人をしのぶ言葉を述べさせられることもよくある。「故人にはマージャンの貸しがまだかなりある。踏み倒されてしまった。遺族が払ってくれ」なんてことは言えない。ひたすら、故人を褒めなくてはいけない。
一方、故人への褒め言葉ばかりを聞く家族のほうは、結構いい気持ちではないだろうか。しかも、お別れの会の進行役は家族以外の誰かがやってくれる。それだけではない。日取りの設定、会場探しから誰と誰に案内状を出すか、挨拶は誰と誰に頼むか、会費はいくらにするか――家族は適当に指示するだけで高みの見物でいられる。
「自分が死んだら、葬儀は家族葬で簡単にやり、後日、お別れの会をやってほしい」
と遺言する人もいると聞く。勝手なものである。
僕は近親者による家族葬には賛成である。でも、それを選択するなら、お別れの会なんてやってほしくない。家族葬だけで打ち切るべきだ。もし、家族葬のあとお別れの会までやってほしいと思うのなら、最初から通夜、葬儀、告別式を盛大にやるべきであろう。それが「筋」というものである。
家族葬とお別れの会のセット――こんな中途半端はお断りである。(岩城元)