居酒屋に入って酒を注文する。すると、頼んでもいないのに、さりげなく「有料のお通し」が出てくる。お値段は300円だったり、500円だったり。勤め人の昼食代に比べても、結構なお値段である。なのに、その割には、料理が貧相でまずかったりする。「いらない」と断ると、「当店ではこうなってます」なぞと言って、引っ込めようとしない。時には「お通しが不要でも、その分の料金は頂きます」と、脅しまがいの言葉を吐かれたりする。
四半世紀、不合理さを訴えてきた
もっとも、「アルコールをご注文のお客様には××円のお通しが付きます」なんて、メニューの片隅に小さな字で書いてあったりもする。だけど、酒を注文する前に、いちいちそこまで目を通す客なんて、そうはいない。
こんなものいらない――この言葉を聞く度に、僕の脳裏には真っ先に「有料のお通し」が浮かんでくる。「注文もしていないのに、勝手に出して、カネを取る」。いらない理由はこれに尽きる。僕はもうかれこれ四半世紀、あちこちでその不合理さを訴えてきたが、なくなってくれない。最近は、あろうことか、ビヤホールでも「テーブルチャージ」と称して、有料のお通しを出す店が出てきた。
有料のお通しの撲滅を目指す僕にとって困るのは、これを認める人たちも決して少なくないことだ。ネットで検索していたら、大学生400人ほどに、居酒屋のお通しが「いる」「いらない」を尋ねた調査結果が出ていた。それによると「いる」が30%、「いらない」が70%とのこと。「いる」人たちの理由は「とりあえず何か食べたい」「おいしいものが出てきたりする」「つまみになる」といったものだが、僕に言わせれば、そんなことでよくカネを払うね、というところだ。
一方、「いらない」人たちの理由は僕と似たり寄ったりだが、不思議なのはこの人たちも、ぶつくさは言いながら、カネは素直に払っているようなのだ。「お通しを断った」「カネを払うのを断った」なんて言葉は全く出てこない。
行動の積み重ねで進歩も
さて、僕だけど、有料のお通しはきっぱり断っている。店側がお通しをどうしても引っ込めないなら、さっと席を立って店を出ることにしている。でも、そのように、けんか寸前になるのも楽しくはない。そもそも、そんな店には入らなければいいのだ。
そこで、初めての店に入る時には、まず店頭で「お通しは有料かどうか」と尋ねる。有料なら、入らない。少し恥ずかしいけれど、こうしたことを積み重ねていけば、やがては不合理なお通しもなくなってくるのではないか。一人ひとりが声を上げなければならない。最近はメニューに「お通しがご不要の方はお申し付け下さい」と記す店も出てきた。進歩である。
お通しは有料かどうかを聞いて恥をかくこともある。
そば屋に入って、ざるそばと酒を注文したら、お通しが付いてきた。予想外だった。おかみさんに「これ、有料?」と尋ねた。「いえ、おカネはいりません」。気品のあるおかみさんだっただけに、よけいに恥ずかしかった。
でも、たまには恥をかいても、僕はそれが撲滅される日を夢見て、決してあきらめないつもりである。(岩城元)