「あいにく満席でございます」
海外勤務を経験したことがある企業の経営者や役員の人たちと話をしているときに、耳にすることがあります。
「海外での生活で迎えのハイヤーに慣れると、今さらバスや地下鉄なんかには乗れない」
と。元のレベルに戻れない、戻りたくないと言うのです。
僕もたった3年でしたがロンドンに赴任していた経験があるのですが、僕は全くもって平気でした。バスでも地下鉄でもタクシーでもかまわないし、むしろそういうものに乗らないと分からない、現地の人々の暮らしというものが確かにあると思うのです。
初夏のロンドンを、やはりジーパンとTシャツで歩いていたら、「クラリッジス」という由緒正しいホテルの前を通りかかりました。暑い日で喉も渇いていたのでアフタヌーンティーでも、と覗いてみると、席はがらがらです。ところが、ボーイはにっこり笑って、
「申し訳ございませんが、あいにく満席で......」
と言うのです。ピンときた僕は急いで家に戻り、スーツに着替え、自らハンドルを握って車でクラリッジスの玄関に乗りつけました。1時間もたってはいなかったと思います。
同じボーイがにっこりと笑い、
「ちょうどいい席が空いたところでございます」
と僕を案内してくれました。
百聞は一見に如かず。自分が必要だと思うものには、惜しまずお金を払えばいい。お金は手段に過ぎないのですから。(出口治明)