「表現手段」はそこら中に転がっている
私がこれまで出した書籍は、いずれも初版が6000~8000部だった。部数だけみれば、純文学よりは恵まれた環境といえるが、ほとんどは初版で終わりである。印税率は10%だから、1冊出すごとにだいたい70万円ほど入ることになる。が、私は筆が遅く、1冊書くのに半年くらいかかるので、年に2冊が(今のところ)限界。このペースだと、印税で得られる収入は年に150万円ほどにしかならない。それでも十分満足しているし、出版させてもらえるだけありがたいと思っているが、年収150万円では「文筆業で食っている」とはいえない。
先に引用した毎日新聞の記事で、文芸雑誌編集長は「執筆だけで食べるのは無理」「(今の時代はテレビ出演や講師など)昔より副業収入が得やすいので作家を続けられる」と言っていた。言いたいことはわかるが、私はそもそも、作家など「なんらかの表現をしてお金をもらう人」が、本業と副業とを分けるという考え方が、おかしいと思う。小説を出すのは立派な表現手段だが、テレビに出て視聴者に何か印象を残すのも表現だ。大学で教える仕事もそうだろうし、小説家がエッセイを出すのも(副業的といわれることがあるようだが)立派な「表現活動」ではないか。
今の時代、インターネットもあるわけだし、有料で記事を公開したり、オンラインサロンでファンを集める作家、ライターもいる。「表現手段」はそこら中に転がっているのだ。せっかく、こんなに表現のインフラが多様化しているのに、「これは本業、これはちょっと後ろめたい副業」と、自分の可能性を矮小化するのはもったいないのではないか。私はそう思う。
「北条かや」としての印税は年に150万円だが、それだけを「本業」とするのではなく、いろんな表現手段を駆使して「食っていく」図太さがないと、この仕事は続けられない。もっと自分の可能性を広く浅く、時に深く追求していかなければと、自分にカツを入れている次第である。
(北条かや)