1970年、「ワクは広がる」
では、この1966年度の指定校リストとその後の採用実績がどう推移しているか、経年変化を見ていきましょう。サンデー毎日は当時からずっと、就職ランキングを掲載しています。ある時点から、「大学通信」のデータ提供を受けるようになったようです。その就職関連記事をたどっていきます。
まずは、指定校リスト掲載から3年後の同誌1970年9月27日号。いわゆる団塊の世代が社会に出はじめるころです。
「シニセの企業とシニセの特定大学の結びつきの強さはいぜんとして変わりないものの、出身大学のワクはグンと広がっている」と記事のリード文にはあります。
第一生命は早稲田15人、東京都立・神戸・慶応・中央・関西学院6人、和歌山・同志社5人と、上位8校はすべて1966年度当時の指定校。漏れていた大学では、立教4、明治3、東北学院・日本・駒澤2など。
三越は、1966年度リストに掲載されていなかった多摩美術・東京女子・日本女子の3校以外はすべて指定校。
旭化成は、採用実績上位10校は1966年度の指定校。それ以外では、東京農工・大阪市立3、信州2など。指定校ながら宮崎大は1人。一方で、私立大の指定校が早・慶・中央の3校のみだったのが、同志社3、明治・上智・青山学院・日本・成蹊・学習院・東京理科・大東文化・関西学院・甲南1と、11校も増えています。
リード文にある「ワクは広がる」はその通りだったようです。
指定校制度は1970年代から1980年代にかけて衰退していきます。
ただし、大手企業と難関大の結びつきはその後も「リクルーター」という形で残ります。形を変えた指定校制度とも言えるもので、現在も続けている企業はあります。
人事労務の専門誌「労務事情」2003年7月1日号の「内定模様の推移を読み解く 価値を失った『拘束』」には、バブル期の内定者拘束事情がまとめられています。その中でリクルーター制度も出ています。「大学ごとのリクルーターを利用した水面下での活動が行われていたのが実態」とあり、リクルーターのいる大学はほとんどが難関大です。「内定者だけでなく、応募学生も拘束し、連日連夜選考を重ね、3~4日ですべての選考を終えてしまうというやり方」だったようです。
興味深いのは、大学名どころか学部名にまでこだわる企業があったことでしょう。記事では、こんなエピソードが紹介されています。著者(採用コンサルタント)がとある企業(内定者が足りていない)に、就活に出遅れた優秀な千葉大生を紹介したところ、
「ダメだ。欲しいのは早稲田の商学部なんだ。政経でも法でも、慶應でもない。早稲田の商学部だ。誰かいませんか?」
今ならまず考えられません。
指定校やリクルーターに話を戻すと、そうしたしくみを一気に衰退させたのが、1996年の就職協定廃止とインターネットの普及でした。この2つにより、短期決戦だった就活は長期化し、企業側も人物重視で考える余裕が出てきました。「何が何でも早稲田大商学部から○人」という手法ではなく、「早慶か千葉大レベルの国公立から△人」「早慶だろうがどこだろうが、▽▽条件に合いそうな学生□人」と幅広く考えるようになったのです。
学生もインターネットの普及で就活が可視化し、企業選び・業界選びをじっくり進めることができるようになりました。