京都で大学生活を送るようになった僕は、本にお金を使うようになったのです。
法学部の学生でしたので、有斐閣の法律学全集などにも目を通しましたが、そのほかにも自分が興味をもった本は手当たりしだいに買って読みました。全共斗運動で大学が封鎖されていたときには1日に15時間ぐらい、読書に没頭したこともありました。
いちばん高い買い物は
いちばん高い買い物だったのは、岩波の「講座」シリーズでしょうか。在学中に「世界歴史」の刊行が始まり、全31巻、1冊1000円(当時の1か月の授業料と同じです)ぐらいするのを次々と買い求めました。
本は、役に立つから、あるいは将来役に立ちそうだから、という理由で読むわけではありません。僕の場合は、ただただ面白いから読むのです。
ギリシア悲劇にも、そうやって出合いました。そこには「神様ですら自分の言ったことは変えられない」という約束が貫かれていて、そのために悲劇が起きます。
たとえばアポロンという予言の神はトロイアの王女カッサンドラと恋に落ちます。なんとか王女の歓心を買おうとして「予言の力」まで与えてしまう。それでもカッサンドラはアポロンに身を任せようとしません。アポロンは、激怒するものの、一度言ったことは変えられませんから、カッサンドラの予言を誰も信じることがないようにしてしまいます。そこでカッサンドラは、「トロイの木馬」による国の破滅を見通しながら誰からも信じてもらえないという悲劇に見舞われるのです。
人間の喜怒哀楽が引き起こすドラマはなんと面白いものか――『ギリシア悲劇全集』(人文書院。後に出た岩波版も買い求めました)のページをめくりながら、僕はたびたびそう感じました。それに比べて、現在の政治家の言葉の何と軽いことよ、と思わずにはいられません。
「会話についていけへん」
振り返ると、当時の僕は自分に自信がもてない田舎出身の学生の一人でした。文学や歴史などについては、多少は、本を読んでいましたが、社会科学系の知識はまったく欠いていました。東京や大阪出身の学生は高校時代からマルクスやレーニンに親しんでいて、堂々と自分の考えを述べるのに、自分は何ひとつ意見を言うことができません。
「会話についていけへん、カッコ悪い!」
そう思って、マルクス、レーニンを読もうと岩波文庫をまとめて買い込んだりしました。さらに、ヘーゲルやカントも知らなければと思って、当時中央公論社から刊行されていた『世界の名著』をもとめたりして、読みふけりました。
さらに、友だちとしょっちゅう議論をしました。議論をすれば、相手から違うボールが飛んできて、それを受け止めることで、自分がそれまで考えたことがなかったような多様な世界が見えてきます。本を読んで蒙を啓かれるだけではなく、友だちとの交流によっても「そうだったのか!」と発見をする機会をたびたび得ることができました。
そんな調子ですから、月々の仕送り・奨学金が待ち遠しくなるのも当たり前。事態が逼迫すると、何冊かの本を抱えてよく古本屋に駆け込んだものでした。
あと3日で仕送りが届くので、それまで売らんといてください、必ず買い戻すので――そんなふうに店主に頼み込んで、「つなぎ融資」を受けることが多々ありました。
面白いと思ったことにお金を使うという僕のスタイルは、大学時代、読書にのめり込むことによって形づくられたのでした。(出口治明)