舛添要一東京都知事の政治資金をめぐる公私混同問題は、世の経営者の皆さんにもちょっとした波紋を広げているようです。問題発覚からのここ1か月ほどの間、お目にかかった経営者の皆さんから事件についてのさまざまな意見をいただいています。その代表的な意見は、次の2つです。
同じ経営者でも異なる捉え方
舛添都知事と同年代のオーナー社長A氏。
「彼は税金という、自分で稼いだわけではないカネを私的流用したのですから、そこは厳しく追及されてもやむを得ないでしょう。我々は自ら稼いだカネで動いている企業経営者だから、仮に社用車をプライベート兼用車として使っても、誰からもとがめられるわけじゃない。つくづく税金で食べさせてもらっている身でなくてよかった、と思いますよ」
同年代の社長でも、サラリーマン社長B氏は見解が違います。
「この一件、他人事とは思えないですね。公私の別をしっかりつけることを、政治家であろうと企業経営者であろうと、実権を握ったその日から心しないといけません。『この程度はいいんじゃないか』という甘い誘惑が日々そこらじゅうにあります。しかし、ちょっとした公私混同でも、社員から見たら信頼感を失わせる大きな過ちです」
同じ経営者でも受け止め方が随分違うものだと、私自身ちょっと驚きました。表面上だけで見ると、オーナー社長とサラリーマン社長の違い、で片づけられそうな話なのですが、果たしてそうなのでしょうか。よくよく考えてみると、どうもその根底には、さらに着目すべき重要な違いがありそうな気がしました。
以前こんなことがありました。
会社が苦しいときは社長だって
リーマンショック後に業績が急激に悪化し、賞与支給を取りやめた製造業のオーナー企業C社で、社員が反乱を起こしました。「会社が苦しいのは分かるが、平均給与がよそより低い当社では賞与も生活給であり、ゼロ回答では生活ができない。せめて一律5万円でも10万円でも、一時金支給をお願いしたい」と、社員が団結して社長に直訴しました。
その交渉の際、一部の幹部社員がぶつけてきた本音に、社長は言葉を失いました。
「社長はいいですよ。高い給与に加えて、車は会社名義で買って、ガソリン代もタダ。食事代だとか宿泊費だってけっこう経費で出しているじゃないですか。僕らにはそういうプラスアルファがないのですから、賞与がないとやっていけないのです。分かってください」
後日、この一件を振り返りながらC社社長はこう話しました。
「本来なら『無断で会社の帳簿をのぞき見してそんなことを言うのは言語道断!』と怒ってしかるべきところなのですが、指摘されたことは事実でしたし、自分にも多少の後ろめたさもあり、ここでキレたら社員との信頼関係を失ってしまうと思い、反論ができませんでした」
何よりもショックだったのは、「会社がもうかっているときは、社長が何をしようと文句を言うつもりはない。でも苦しい時は、僕らも一緒にがんばって稼いだ会社のお金を、社長だけが私的なことに使うのはちょっと違う気がする」という一言だったのだと。
「あの一言で私は目が覚め、社員に一律10万円を支給し、私の給与を下げました」
この一件を通じC社社長は、社員の視線と目線を意識することの大切さを学んだといいます。
「社員は社長自身が思っている以上に、社長のことをよく見ているのです。社員から一挙手一投足を監視されている、と言っても過言ではない。これが社員の視線を意識するということです。そして自分が社員だったら社長の行動をどう思うか、と常に社員の立場で考えるのを忘れないこと。これが社員の目線を意識することです。この一件を境に社員との一体感が強くなりました。あのまま賞与ゼロ回答で突っぱねて、私が自分勝手を続けていたら当社はつぶれていたでしょうね」
忘れてはいけない視線と目線
ここで冒頭のA氏とB氏の発言を吟味すると、オーナー企業社長のA氏はサラリーマン社長のB氏に比べて社員視線も社員目線も著しく欠けている、ということなのではないかと思えます。もちろんその違いが、社長自身に社員経験があるか否かに由来することは否定できません。
そうなのです。オーナー社長、特に創業者は社員経験がないのが一般的。二代目、三代目でも、親の会社で普通に社員経験をするケースはごくまれ。社長になることを意識して自社に入っている以上、一般社員が社長をどんな視線や目線で見ているのかなど知る由もないでしょう。社員視線、社員目線を忘れがち――オーナー社長の陥りやすい落とし穴が、そこにはあるのではないかと思うのです。
この話を舛添都知事に引き寄せて言うなら、知事に欠けていたのは都民視線と都民目線。同じリーダーとして一番欠いてはいけないものが、やはり欠けていたのかもしれません。
A社長をはじめとする世のオーナー経営者の皆さん、連日メディアで厳しい追及を受ける都知事の姿を見て、はたして自分はリーダーとして社員視線、社員目線を忘れていないか、と自問自答してみる必要がありはしませんか。(大関暁夫)