近年何度目かの日本酒ブームに私も乗って、個人的に贔屓にしている地酒銘柄があります。個人ではほとんど手に入らないほどの人気なので、酒蔵と付き合いがありその銘柄を常備している店で飲んでいるのですが、そこの店主から意外な話を聞きました。
「この銘柄は世に出てまだ10年にも満たないもので、若い経営者が一から作ったまったく新しい酒なのです」
サラリーマン風の出で立ちで
私はてっきり、酒蔵に代々伝わる酒造りを磨きに磨いて今の味に至ったものに違いない、と思い込んでいました。ところがその酒蔵Mの四代目若手経営者は、従来の酒造りを一変させ、これまでとはまったく違う考え方で人気銘柄を作り上げたのだというのです。
「社長に会って、ぜひ話が聞きたい」。俄然、私の好奇心は掻き立てられました。そしてこのゴールデン・ウィーク、店主が定例で行う酒蔵訪問に、無理を言って同行させてもらうことにしたのです。
酒蔵Mは東北の一地方都市にありました。経営者のY社長は39歳。およそ、私が想像していたような若手カリスマ職人風情ではなく、むしろ中間管理職サラリーマン風とでも言えそうな出で立ちでした。それもそのはず、彼は大学卒業後すぐ実家を継ぐことを望んだものの、先代である父親からその許しを貰えずに、数年間、東京の大手電子機器メーカーにSEとして勤務したのです。
火だるま状態からの出発
父から実家に戻ってもいいとの許しが出たのは5年目のこと。戻ると真っ先に「ここにハンコをつけ」と差し出された書類は、巨額の借入金に対する個人保証でした。
「昔ながらの清酒づくりを続けていた蔵の財務は赤字続きの火だるま状態。先代が私への代替わりを決断したのは、万策尽きて後はお前に任せるということだったのです」
Y社長は逆に、「これはチャンスだ」と思ったと言います。SE勤務の傍ら自分なりに酒造りの勉強を続けていた彼は、田舎に帰るたびに「新しい酒造りに変えていくべき」と繰り返し進言していたのですが、それでも父親が一切耳を貸さなかったからです。「責任を負わされた以上、やりたいようにやれる」。彼はそう前向きに考え、決意をもって押印したのでした。
社長に就任した彼は、以前にも増してがむしゃらに勉強を続け、新しい酒造りの実現に向け自ら現場に入って、「どうしたら自分が一番飲みたいと思う酒が作れるか」の追求を始めました。そして現場と二人三脚で研究に研究を重ね、実践に実践を重ね、たどり着いたのが今の銘柄だったのです。
販売に関しても、それまでの地元中心の出荷でよしとする消極姿勢を改め、全国レベルの品評会に積極的に顔を出すなどし、「うちの酒の旨さを一人でも多くの人に知ってほしい」という姿勢で知名度を上げる努力をしました。そして社長就任から数年で、日本酒党の誰もが唸るおいしい酒を作り上げ、今では入手困難で有名になるほどの人気銘柄にまで押し上げたのです。
成功の要因を尋ねると
「まだまだ成功への第一歩」と謙虚なY社長ですが、ここに至るまでの成功要因を尋ねてみたところ、次の3点を挙げてくれました。
1点目は、大企業の管理やマネジメント手法に学ぶことの重要性。
彼は大手企業のSE時代に多くのことを学び、それが今に活きていると言います。「製造現場の管理手法は、まんま酒蔵現場で応用が効いた」「どんなに優れたものを作っても、営業が怠けていれば売れることはない」などなどの発言にその真意が読み取れます。
2点目は、現場主義。
「経営者たるもの、現場に入らずして企業経営はできない」。Y社長は、酒蔵の製造責任者である杜氏を兼務し、今も「家に帰るのは週に1日か2日程度。ほとんど酒蔵で寝泊まりしています」という。「創業者は誰しも現場スタートだったはず。代替わりするごとに現場が遠くなるなら、企業もそれにつれて衰えていくと思う」とは、多くの企業の二代目、三代目が陥りやすいという点で、実に当を得た話に聞こえます。
そして3点目は、先代からの独立。
「先代を含め、創業来の代々経営者の業績は敬意をもって受け止めています。ただ自分が全責任を負わされた以上は、自分のやり方で道を切り開いていくしかないという決意が先代らとは違います。理由はどうあれ全権を託してくれた先代には感謝しています」。事業承継における意外な盲点を突いた一言ではないでしょうか。
若くして古い酒蔵の経営を見事に建て直した敏腕経営者の話を聞きたいと足を運んだ私でしたが、彼からは経営代替わりにおける知られざる秘訣を教えられた思いで当地を後にしました。Y社長が教えてくれた成功の秘訣3点は、業種問わず経営を譲る側、譲られる側双方にとって、大きなヒントになるのではないでしょうか。(大関暁夫)